Dear-Abbadoのブログ

折々の雑感を綴っていきます。

ワークアウトの去年と今年

長いこと細々とジムに通っています。

東急オアシスからエニタイムフィットネスへ鞍替えしてはやくも一年半が経過。たまたま、ジムへ行った日付とワークアウト内容のメモを小さいノートにつけ続けていたので、去年と今年とを比較してみました。そして、びっくり。

1月が8回(21年)→3回(22年)、2月は変わらなかったものの、3月が6回→1回、4月が6回→4回、5月が6回→3回と(6月以降も同様に減少)、今年はジムへ行く回数がガクンと少なくなっていました。

以前は会社帰りに途中駅で降りて、その道すがらオアシスへ行っていたのですが、エニタイムは自宅近くの駅前にあっていつでも行けるので(24時間オープンだし)、かえってサボってしまっている、というのが現状です。

太ったねぇといろんな人から言われるのですが、明らかに、ジム通いを怠けているのが実を結んでしまっているようです。

今日はちゃんと行って鍛えてきました。今月後半から本格的に再始動する計画です。


クリーム入りのカフェラテもたまには飲みたい

またお会いしましょう。

とにかく書いてみることの大切さ

物書きの中にも、とにかく多作でしょっちゅう小説だったり評論だったりを世に出す人と、滅多に書かない人とがいます。滅多に書かない人はもとからあまり書けないタイプで、書かないうちに文筆の世界からは消えていってしまったりします。

人間は常に頭の中でいろいろと考えている生き物です。考えるというか、思いや情念のほかにも、意識的なものや、無意識的なものから表面に浮き上がってきたもの含め、頭の中に何かしらが蠢いています。誰とも会話しないでいると、頭の中で一人おしゃべりが始まるほど、人間の頭は常に動いています。

しかし、毎日頭に浮かぶあれこれは、つかまえずにおくと、流れて消えていきます。喫茶店でぼーっとしているときに前触れもなく素晴らしいアイディアがふと浮かんでも、悦に入っているうちにどんなアイディアだったかさえきれいに忘れてしまいます。悲しいかな、そんなものです。

逆に、何もアイディアが浮かばなくても、頭の中から無理やりひねり出しているうちに、そっと妙案が誕生したりします。学生の頃、課題でレポートを嫌々書いているうちに、考えがなんとなくまとまってきて形になる経験をしたことがある人も多いと思います。手を動かして書いているうちに、考えが形を成してくるのです。

ペンで紙に書く、タイピングしてワードに記す、どちらも手という入力器官を通して、あたかも脳へ出力するような流れです。脳から手を通して出力ではなく、手を動かして脳へ出力するような(手を動かすのは脳なのですから、ちょっと聞くとおかしな話なのですが)ことが起きます。

考えは書いてみることで形になるのです。マルクスだって、元ネタは頭の中に仕込んでいたはずですが、書き始めたから資本論の全巻を仕上げられたのです。プルーストも絶対に、書きながら記憶を辿っていき、記憶を辿りながら手を動かしたから、失われた時を求めることに成功したんです。

書かないと考えは形にならないし、文字にしないと風化してしまいます。そして、書かないと、確実に書けなくなります。書くことは考えることであり、考えながら人間は書くのです。そして、話すことも同じです。言葉を外に出すから思いが形になるし、話しているうちに気持ちが整理されたり、考えがまとまったりするのです。

と、そんなことを書きながら雑に考えました。


思考は続くよどこまでも

またお会いしましょう。

健康法としての愚痴

僕は口が悪い人間です。見た目は大人しそうに見えるらしいですが「たまに毒を吐く」と、びっくりされることがあります。昔からです。母子手帳を以前開いてみたら、母親の嘆きとして「口が悪くて困る」と書いてあり、驚くやら、恥ずかしいやら、僕自身なんとも当惑しました。

「もの言わぬは腹ふくるるわざ」と言いますから、言いたいことがあったら、批判的なことでもどんどん口に出して言った方が心身の健康にはいいはずです。と、考えたいです。

貪り、怒り、愚かさ。この三つは仏教では三毒とされて、戒められる最たるものですが、これらこそ人間の人間たる証みたいなものでもあります。

少なくとも、貪らないし、怒らないし、愚か(仏教が説く真理に暗いこと)でない人に、僕はこの世でこれまで誰一人として会ったことはありません。人間は三毒ゆえに人間なんだと思っています。手放すことができたら、もう仏様でしょう。

揚げ足をとったり、難癖つけたり、文句ばっかり言ってる人間は、僕は嫌いです。でも、僕自身が毒舌で、意外に愚痴愚痴した人間だったりします。たまに反省はするのですが、死ぬまで直らないような気もしています。

口が悪い人に根の悪い人間はいない、という話も一方ではあります。口が悪い人は、思ったことがふっと口から出てしまう素直で正直な人間で、心が完全にオープンという意味でしょう。これにも一理ありそうです。

否定的なことは一切言わないようにすれば、健康面も人間関係も金銭面も、あらゆる面が良くなるという、苦行みたいな人生改善法があるそうです。実践するのは、かなり難しいらしく、こんなにも多く自分は悪い言葉を吐いていたのかと、みな愕然とするそうな。それだけに、効果覿面なんでしょうね。

きれいごとはあまり好きではない僕としては、これからも適度に毒を吐き、なるべくまっとうな批判を展開し、心の中の毒を言葉として出しながら、生きていくしかないと思っています。

名古屋、秋葉原、大井町

6年ぶりに名古屋へ行きました。GWの新幹線は満席。名古屋の街中も、栄や伏見は混雑して活気がありました。名古屋は空襲で文化財がかなり消失したせいか、正直あまり観るべきところはありません。が、喫茶店が多く、道が広く、中心地を離れると人が少なく、のんびりした良い街です。

以前も寄った、バナナレコードというご当地チェーンの中古ディスクショップで、マーラー交響曲第7番(バレンボイムとSB)と、ハイドンのパリ交響曲集(クイケンとOAE)の二枚をお土産に買って帰りました。


名古屋城、金の鯱

その次の週、小学校時代の旧友に一年ぶりで会い、食事をしました。先日、お見合いをしたとのこと。お互いの仕事の話や親の話、その他色々と語り合って楽しく酔いました。

店の窓から秋葉原に集まるオタク達(?)を見ていると、昔のような陰気な日陰者オタクの雰囲気はまったくなく、ごく当たり前に自分たちのカルチャーを満喫しているような印象を受けました。令和の秋葉原はすっかり明るいです。いるのはオタクでなく、普通の若者達でした。

そして今日は、大井町にあるお寺に参拝しました。お寺へ向かう僕の頭上、雨上がりの低い空を、ジェット機が次から次へ轟音とともに飛び去っていきます。ANAJALに、Jetstarかな。その度に足を止めて機体を見送りました。飛ぶのを間近に見るだけで本当に胸が熱くなります。ホーチミンジャカルタに、いま再びのバンコク・・・。今年は絶対にいずれかに行くつもりです。

またお会いしましょう。

wikipedia編集をしてみて感じたこと

ぜひともwikipediaで作成したいページがあり、先日、アカウントをとって記事を書き上げ、アップしました。

すると驚いたことに、別の誰かが翌日にはもう記事に手入れをしてくれ、不備の指摘や体裁の修正がありました。それも一人ではなく、複数の人が手を入れたのです。

wikipediaでは、アカウントを取得してログインすると、ページに対してどんなユーザーがいつどのような編集を加えたかが分かるようになっています。

wikipediaのルールに基づかないと判断された点は容赦なく指摘され、いわく、「この記事には複数の問題がある」「出典がまったくない(または、偏っている)」や「独立性が担保されていない記事」等々のテンプレートを貼り付けられてしまいます。

完全にオープンで、複数の人が編集することが可能なことが、wikipediaを「客観的」かつ「中立・公平」な媒体たらしめているのは否定しにくいでしょう。

一方で、実際に記事へ編集を加えられてみると、はっきり言ってありがた迷惑だと感じたことも白状しておきましょう。端的に言って、コロナ禍における″自粛警察″並みにウザいと思いました。

僕の記事に手を入れたあるwikipediaユーザーのプロフィール欄を何気なく見てしまったところ、インターネットの世界にしか自己表現の場を持てない種類の人間にありがちな、パラノイア的なヤバい紹介文が躍っていました。きっと、無職の引きこもりか中年の廃人ニートだろうと思います。

ネットの世界は所詮、現実のいびつな写し絵に過ぎません。wikipediaに対するときも、このことを肝に銘じなければとあらためて自戒しました。

またお会いしましょう。

皇室報道に思うこと

今日は今上陛下の御誕生日です。天皇陛下、おめでとうございます。陛下のご健康と令和の御代が素晴らしいものであること、皇室の弥栄を祈念いたします。

このところ皇室報道が荒れ気味です。先日、秋篠宮家の悠仁親王筑波大学附属高に合格されたことが公表されましたが、そこへ至る経緯を巡って、いまだに荒れています。

男系で連綿と続く天皇家の血筋を継がれるであろう悠仁様におかれては、どの学校へ進まれても、健やかに成長されることが一番大切でしょう。

皇族就学令によって皇族の学習院への進学が定められていたのはかつての話で、伝統はさておき、皇族方がどのように学ばれようとも皇族方のご選択が尊重されてよいと思います。

ネットに拡がる皇室関係の記事、特にゴシップ的に書き散らされているものは大半が情報の出所が怪しいものばかりです。自分で取材もせずに書いているのですから気楽なものです。

いわく「天皇家創価学会」「愛子様には障害がある」や「秋篠宮様の父親は上皇陛下ではない」「紀子様の故郷は朝鮮半島」などなど、妄想のオンパレードです。そして、天皇家派と秋篠宮家派とで非難の応酬になっていて見るに耐えません。

センセーショナルな内容であるほど閲覧数を稼げるのでしょうが、皇室に対して国民がそういう下賎な見方をすればするほど、ワイドショー的な接し方をするほど、結果として皇室の品位を損うことになることを、そろそろみんな自覚した方がよいと思います。

マスメディアもまるで芸能人のように皇族方を追っかけて報道したりするのは控えるべきです。

天皇陛下は日本の安寧を祈ってくださる祭祀の長であり、皇族方は神聖な存在です。私権を制限され、ある意味では気の毒な生き方をせざるを得ない方々でもあります。あまりに開かれた皇室というのはよろしくありません。国民は静かに、温かな気持ちで見守り、支えて差し上げるべきです。

またお会いしましょう。

「1日3食」は食べ過ぎ

朝はディカフェのインスタントコーヒー2杯、夕方にロイヤルミルクティー1杯、夜は炒飯大盛1皿とアイスモナカ1つ。これが、今日僕が口にしたすべてでした。

近頃とても忙しく(忙しいという言葉はあまり使いたくないんですが)、昼ご飯をとる時間ももったいないくらいなため、気がついたら朝から何も食べずに夜になることが多くなっています。つまり、1日1食の日が最近は多いです。

高校や大学の頃は別として、社会人になってからはまともに朝食を食べずにずっとやってきました。一つには、朝はギリギリまで寝ていたかったこと、そして、朝ご飯を用意したり買ったりするのが面倒だったことが理由です。

20代半ば~後半に体調を崩したとき、たまたま書店で「朝食を抜くと病気にならない」(石原結實著)という本を見つけてその理論通りに実践したところ回復したことも、朝食抜き1日2食生活を決定的なものとするのに影響を与えたと思います。

江戸時代の庶民は1日2食が普通だったようですが、現代日本人より体を使って働いていました。頭脳労働するには2食では足りないという反論が聞こえてきそうですが、実際に試してみれば分かりますが、食べた後より食べる前の方が頭は冴えます。

以前勤めていた会社では、外資系の証券マンや証券アナリストは眠くなるから昼食はとらない、という話を聞いたこともありました。

朝はお茶かコーヒーを飲むくらいにし、昼は普通に食べ、夜は腹八分程度に食べる。成人したら、よほど激しく肉体を使う仕事でない限り、これがいちばん良い食事内容じゃないかと思います。実際に、最近1日1食の僕もいたって元気です。

現代人は、家庭でリラックスする夜は食べ過ぎる傾向にあって、前夜の食べ物が消化され切らないうちに朝ご飯を食べ、昼ごはんを食べ、また夜ご飯と、ひっきりなしに食べています。ときには間食だってするはずです。

これでは、古いガソリンが燃え残っているところへ新しいガソリンを注ぐような状態です。胃腸も、休むに休めず辛いのです。

肥満や糖尿病、体のダルさ、高血圧、さまざまな疾患、加齢進行など、食べ過ぎからくる不調は多いようです(詳しくは前掲の本ご参照)。かなり極端な例では、断食でガンを治癒したという話もあるそうです。

三度三度きちんと食べようという「1日3食」は、実際に朝ご飯抜きにトライすれば体感できますが、実はそんなに正しくもないものです。むしろ、「きちんと3食」は食べ過ぎです。

騙されたと思って、1日2食(または1日1食)にトライしてみてください。体がしゃきっとしますよ。

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たまにはこんなブランチも最高ですが

またお会いしましょう。