当ブログでもたびたび書いていますが、僕は(男としては珍しくも?)占いの類がいたく好きです。四柱推命、八字、算命学、紫微斗数、インド占星術、宿曜占星術、姓名判断、九星術など、ひととおりかじってきました。主には東洋の占術です。
四柱推命や算命学、紫微斗数、インド占星術、宿曜占星術などの命理を観る占いでは、人がこの世に生まれ出た時の命盤から宿命を読み解きます。基本的に、人生のスタート時点の星の配置や運気が一生を支配するという考え方に基づいています。だから、同じ生年月日時に生誕した人は同じ運命を辿ると占断されます。
同じ生年月日で生まれた時刻や分秒まで同じ人はそれなりに世の中にいるでしょう。けれど、その人たちがみな同じ人生行路を辿るとは僕はもちろん思っていません。双子や三つ子で違う人生を送るケースも聞きますし、ネットで調べればいくつもの事例が出てきます。
2024年の年末から翌年始にかけてインドのデリーへ旅をしたときのこと。
半端ない人の数の多さに驚くと同時に、デリーでこれほどの人口密度なら「インド全土で生年月日時がまったく同じ人はごろごろいるだろう。が、ある人は一生ホームレスのような暮らし、またある人は階層を這い上がって富裕になる。さらにもう一人は、一生を神々に仕えて生きる」「占いの視点からみても実は生年月日なんて、決定打ではないんじゃないか?」と感じました。実際、インド一国に限ったとしても、まったく同じ命理を抱えた人なんて無数にいるでしょうね。
なぜ、同じ日時に生まれても違う人生になるかは、いろいろ理由づけができて、例えば親や家族が違う、生まれた国が違う、受けられる教育に差が出る、宗教が違う、性別が違う、都会で育つか田舎で育つかによって違う、遺伝的な気質が違う、などが考えられます。
後天的な精進によって、出世したり、お金持ちになったり、人格が磨かれたりするケースは数多あります。皆さん、ご存じのとおりです。
では、タイトルにも書いた「占いのダメなところ」はどこか。
人間という複雑な存在をある一つの型に嵌め込んで、理解しようとするあり方そのものがダメなんだと僕は思うんです。マンデン占星術や算命学など、占いによっては建国のタイミングから国の命運さえも推し測るので、こと人間に限った話ではありませんが。
人間って、自分自身でもある意味予測がつかないような、摩訶不思議で多様性に満ちたカオスであり、小宇宙だと思うんです。
考えてみれば、同じ一日のうちでも朝と夜では考えていることや気分が驚くほど違う日もあったりするわけです。時間の推移でも違えば、体調によっても違ってきます。風邪で体調が最悪なときに、すべてがうっとうしくなって世の中を呪いたくなることなんて誰にでもあるわけです。
2026年6月18日の今日に誕生した人はこれこれこう、なんて勝手に決めつけられて制限までされては困るし、おかしいんです、本来は。良くも悪くも、占いが暗示として働くと人間の発展的なあり方が阻害されてしまいます。別なあり方でもあり得るポテンシャルが狭められてしまうし、可能性が塞がれてしまうかもしれない。
宗教改革で有名なカルヴァンが似たようなことを『占星術への警告』で論じています。岩波文庫で読めます。ソフトバンクグループの孫正義も、『物事の可能性は常に50/50。占いを信じる人はアホ。信じてしまうような人は経営者には向かない』と切り捨てています。それはすごくよく理解できます。
僕は占いがすごく好きでいながら、他方で批判的な見方もしています。命理の占いが面白いのは、陰陽、天干や地支、九星、象徴的につくり出した星や実際の天体の組み合わせを観ながら、その背後に思想や文化が垣間見えてくるからです。
干支や九星の概念は古代中国の風土でこそ生まれたものですし、黄道十二星の研究から占星術を洗練させたのは西洋ならではです。「易の精神」が楽しいし、好きです。占いは、ダメなところもあるけれど好きなんです。
またお会いしましょう。

