一昔前まで、文学にたしなみがあることが教養人の条件とされた時代があったようです。あったようですというのは、もちろん僕がそんな時代を直接には知らないからです。
日本文学はもちろんのこと、ギリシャ、ローマの古典からはじまって、中世、近現代の名だたる海外文学を読んで、血肉にしていることがかつては教養ある証とされていたようです。
ウェルギリウスの詩の一節を諳じてみたり、梁塵秘抄の歌を文章にさらっと引用したり、シェイクスピアの戯曲を引き合いに心理分析してみたりと、昔の教養人はその読みの幅広さと理解の深さゆえに、一家言をなす存在たりえていたのでしょうし、多くの人から尊敬されてもいました。
そうした時代はほとんど過ぎ去ったかのようです。そして、文学のたしなみだけが教養の証というわけでもなくなりました。
そもそも、教養というのは定義が曖昧なもので、阿部謹也さんのように「世間」との関わりで捉える人や、語彙力こそ教養だと論じる人、立花隆さんのように英語とコンピューターサイエンスと分子生物学が現代の教養だと言う人まで、人によってかなり幅が広いものです。
ただ、現代社会が文学のたしなみだけで個人が生き抜いていけるほどシンプルな社会でなくなっているのは事実でしょうし、教養の中味も世の中の変化に少しずつ影響を受けていくのでしょう。
教養の話が長くなりましたが、教養の無い僕が教養論を強要するつもりは毛頭ありません。書きたかったのは、文学についてでした。文学と言っても多様過ぎるので、広く小説一般について少し考えてみたいと思います。
先日、芥川賞と直木賞の受賞作の発表がありました。芥川賞と直木賞はオワコンなどと揶揄されながらも、マスメディアに取り上げられ、やはり世間からは注目されますし、新人作家(特に芥川賞)のこれからに読者も期待するものです。お祭り騒ぎ的な雰囲気は年々薄らいではいるものの、半年に一度の明るいイベントとしてこれからも続いていくのでしょう。
本屋大賞もたびたび話題になりますし、毎年ノーベル文学賞の行方にみんなが固唾を飲むのも、芥川賞・直木賞が注目されるのも、日本人がけっこう小説好きだというのを証明する例だと思います。
翻って、不特定多数の人間が一定時間、同じ空間を共用する場所として、電車や飛行機、喫茶店などを例に観察してみると、大多数の人たちはスマホいじり(YouTube、TikTok、Instagram、ゲーム、マンガ)に熱中して過ごしています。
必ずしもそれが悪いとは言えませんが、そういう光景を目の当たりにすると、いわゆる活字離れが深刻なのは本当と認めざるをえません。中にはスマホで日経電子版を読む人や電子書籍を読む人もいないではありませんが、一部にとどまるようです。
たまに電車の中で本を読んでいる人を見ると、何を読んでいるか僕はとても気になります。他人が読んでいる本というのは大抵、自分のアンテナにまったく引っかかったことのない本であることが多いので、だからこそ気になるのです。
他人が読む本は、僕にとって未知の大陸、未開の荒野なのです。昨日も、副都心線の車内で文庫にかじりついている年輩の男性がいて、目を凝らして見てみると、書名は「イーストサイド・ワルツ」。まったく初めて知る本で、新鮮な驚きを覚えました。
僕の周りにも読書家は何人かいて、本の話をしばしばしますが、なぜか小説を読んでいる人が多いのです。
本といっても、ノンフィクション、ルポルタージュ、歴史書、科学書、随筆、詩集、語学書、経済書、自己啓発書、医学書、音楽書、宗教書、オカルト本など、ジャンルはさまざまにあるはずです。にもかかわらず、読書というと小説となるケースにぶち当たります。
僕自身は、実はあまり小説が好きではありません。好きでないというよりも、ルポルタージュ、随筆、経済書、宗教書、音楽書、自己啓発書の方が好きで、あまり小説を読まないといった方が正確です。いずれにせよ、僕が小説の良い読み手でないことだけは確かです。
もちろん、多少は読んでいます。
五木寛之、三島由紀夫、田辺聖子、永井荷風、ガルシア・マルケス、カポーティ、安部公房、ヘミングウェイ、吉田修一、太宰治、町田康、大江健三郎、石原慎太郎、野坂昭如、宮本輝、藤野千夜、川上弘美、松浦寿輝、庄野潤三、島田雅彦、富岡多恵子、高井有一、古井由吉、芥川龍之介、森鴎外、村上春樹、青来有一、林真理子、新井満、夏目漱石、丸谷才一、楊逸、西村賢太、志賀直哉、レイモンド・カーヴァー、永井龍男、岩野泡鳴、吉村昭、織田作之助など。
五木寛之さんとオダサクの小説はそこそこ読みましたが、他の作家は代表作やその周辺作をちらほら読んだに過ぎません。
幼い頃から、小説を読んでもストーリーの中へスッと入っていけないもどかしさを覚えていました。小説なんて所詮、他人の頭の中でこしらえた作り話じゃないかと思うと、ぜんぜん面白くないのです。
「事実は小説よりも奇なり」と言うじゃないか、虚構は虚構であって、小説を読んだところで何の役にも立ちはしないと、醒めた目でしか見られないのです。
僕はきっと、イマジネーションが貧困なんだと思っています。そう、想像力の豊かな地平に心を躍らせることのできない自分は精神的に貧しいんだと、恥ずかしさを感じないでもないのです。小説の物語世界について熱っぽく語る人を前にすると、羨ましく感じ、どこかで反発する気持ちも覚えつつ、やはり少し萎縮する自分がいます。
今年は小説を幅広く読んでみるつもりです。ただやはり、大長篇にはまだ手が出ません。読み通すのがしんどいです。中篇、短編からトライしてみたいです。
週末に、丸谷才一さんの短編集と、初めて角田光代さんの中篇を買ってきたところです。前回、読みさしで紛失してしまった魯迅と、島崎藤村もリストに加わっています。
みなさんはどんな小説、作家がお好きでしょうか。
またお会いしましょう。