Dear-Abbadoのブログ

折々の雑感を綴っていきます。

ダンゴムシの来世

小学生の頃、僕は虫を殺してよく遊んでいた。家の周囲には雑木林や藪がたくさんあって、蟻、トンボ、バッタ、象虫、毛虫、カナブンなどが至るところにいた。そうした虫たちを、僕はあらゆる方法でかなりの数、殺した。

いま考えれば本当に残酷なことをしていたと思う。子供が虫を殺すことはよくあるとは言え、許されないことだし、いくら懺悔してもしきれない。

先日、川崎市の温泉施設へ行ったときのこと。露天で湯船に浸かっていると、ほど近いところにある岩の上にダンゴムシが二、三匹、這い回っているのが見えた。森の岩陰を模したような狭い植え込みに、ダンゴムシや蟻が行き来して、不思議な静けさが支配していた。

夏になると、僕の住むアパートの階段や踊り場で羽虫がたくさん死ぬ。明かりに集まって飛んで来たものの、外へ出られなくなって、飛び回るうちに暑さに蒸し殺されてしまうのだろう。子供のときに虫をたくさん殺した償いのつもりではないが、たまにそんな羽虫たちの死骸を集めて土の上へ移してやったりする。

そうした無惨な生死も、自然界では当たり前のように繰り返される。彼らは苦しさを訴えることも、何かを言い残すことも、誰かに看取られることもなく、ただ静かに死んでいく。そう考えると、なんとも儚く、やるせない気がする。

僕らはたまたま人間に生まれ、死んでいく虫たちのことも横目で眺めるだけだ。夏の炎天下、アスファルトの上に仰向けになって死んでいるセミを見ても、たいていの人は、よくあることと気にも留めはしないだろう。しかし、もしかしたら僕らも人間ではなく虫に生まれてきたかもしれない。路上やアパートの階段で最期を迎えたのは自分たちだったかもしれないのだ。

川崎の温泉で岩場を這い回っていたダンゴムシ。彼らはおそらく、人間のように生き死にのことなど思い患うこともなく、淡々と生を営み、いつしか命を終えていく。

次に生まれ変わるとき、彼らにはどんな新しい生が待ち受けているのだろうか。虫にとっても人間にとっても、一生はただ一生。生死に優劣はない。僕自身もいつかは死ぬ。

そんなことを考えながら、ダンゴムシたちに来世があるとしたら、それがより良きものであるようにと、心の隅で思った。

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