Dear-Abbadoのブログ

折々の雑感を綴っていきます。

音楽の「深み」とは何だろう(1)

クラシック音楽の評論を読んでいると、「深みのある響き」だとか「深みに乏しい演奏」だとかいう文章にしばしば出会う。「深い」音楽は良きものである一方、音楽が「浅い」というときには、それを書いた作曲家やその演奏者が、ある種の力量に不足していることを咎める含みがある。

しかし、いったい音楽の「深み」とは何なのだろう?そこで表現されているのは自明なもののようでいて、いまいち捉えどころがない。長く音楽評論に親しむ中で、深い演奏は言うまでもなく深い演奏であり、浅い音はどうしようもなく浅い音なのだ、何も考えずにそう割り切ってきたけれど、音楽における「深み」とは何なのか、深い演奏や深みのある音楽とは何なのかを、ここであらためて考えてみようと思う。

クラシックの世界で、深みのある演奏を繰り広げた人といえば、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーブルーノ・ワルター、ヴィルヘルム・バックハウス、そしてヨーゼフ・シゲティなどを代表に挙げる向きが多いと思う。逆に深みに乏しい演奏、いわゆる「浅い音楽」「浅薄な響き」などと批判されがちたったのが、ヘルベルト・フォン・カラヤンだ。ピアニストでは、ウラディーミル・アシュケナージなども深みに乏しいなどと言われることがある。カラヤンの演奏については、「深みがないことの、なんという美しさ」とまで揶揄される始末。カラヤンがつくり出す響きは、耳には心地よいが中身がない、精神性が感じられないというのだ。カラヤンなんて「空やん」というわけである。

「深い」とか「浅い」というとき、例えば器を例に出して考えてみると、分かりやすいかも知れない。深い器は底がすぐには見えないし、より多くの物が入る。何かをいっぱい入れておけば、取り出すときの楽しみも増える。でも、浅い器はすぐ底が見えるし、中身も当然あまり入らない。

音楽も、深みのある音楽であれば、色々な要素がその中に盛り込まれていて、聞き手に底知れぬ魅力を感じさせるけれど、深みに乏しい音楽は、鳴っている音が鳴っている音以上の内容を持ち得ない、つまりはただの音響である、という風に考えていくことができる。

大人になるということは

喫茶店に入って文庫本を読む。いつも通りの週末の過ごし方。今日入った京急蒲田の喫茶店は客席と客席の間が狭く、聞くつもりはないのに隣の客のお喋りが耳に入ってきて、読書に集中するのに苦労した。こんなとき携帯音楽プレイヤーは重宝するんだろう。

聞くともなく他人の会話を聞いていると、当たり前だけれど人によってトピックは様々で、人それぞれ頭の中はてんでバラバラだということが分かる。

最初に右隣の席に来た女の子二人がしていたのは、それなりにうまくいっているお互いの恋愛の話。次にその席へ来た屈強そうなオバサンは開口一番「頭にくる日は他のこともいろいろ頭にくるね!」、その後は連れのおとなしそうで無口なオジサンを慰めながら、病気やグルメや学歴の話をしたり。一方、左の席にまず来たのは小さい女の子を連れた母親とオバサンのグループで、話題はもっぱらその女の子の挙動。そのグループが去り、代わりに来たのは女の子3人組。こちらは、一人がうまくいっていない恋愛の話を切り出してから、結婚の話や休日の計画、転職の話などをしていた。

昔、ある本に「大人になるということは、他人という存在を知ることだ。自分と他人は違うということを知っていくことだ」と書いてあったのを、ふと思い出した。人はそれぞれ異なる存在だ。肉体というハードの構造やその性質は、だいたいみな同じだけれど、精神や気質はまったく違う。ユングが提唱した普遍的無意識とかは多分あると思うし、時代精神というのも間違いなくあると思う。そういう、民族や人類の意識の底にあって、底に溜まっていって、僕らを規定しているものはあるはずだけれど、一人ひとりの人間の違いというのは、それはとても大きいと思う。

親兄弟であれ、友達、恋人であれ、最後の最後のところでは他人であり、結局のところは分かりあえないところがある。自分のことだけ取り上げてみても、自分の心の中にこんな感情があったのか?というような体験をして驚かされることもあるくらいなのだ。自分でも知り尽くせていない自分である。まして他人のことなど、理解できた、分かりあえたと思う方がおかしい。

まぁ、他人同士違うからこそ理解し合えるよう努力すべき、という方向性もあるとは思う。でも、僕の思考はそこまで熟して(?)もいないし、親切でもない。自分と他人とは違うというのが、あらためての、僕の人間観のベースにある。場末の喫茶店でぼーっとしながら、そんなことを考えた。

音楽小辞典をめくる

音楽評論家の吉田秀和氏が書かれた文章を読んでいると、音楽用語がわりと頻繁に出てくる。楽譜が読めない人には分かりにくい表現が登場したり、ときには譜例が引用されていたりもして、難儀することもある。これは、言わんとするところを正確に読者に伝えるために吉田氏がやむを得ず採った方法なのだろう。それまで単なる印象表現に片寄りがちだった音楽評論を確固たる分野にまで高めた吉田氏の、読者に対する誠実さの表れとでも言えるだろうか。

僕はクラシックの評論を読むのが好きだし、楽器を習っていたこともあるので、ごくごく一般的な音楽用語は知っているつもりだった。しかし、例えば「レチタティーヴォから、アレグロ・マエストーゾを経て、ピウ・アレグロに高まる大憤慨のコロラトゥーラを持ったアリア」(吉田秀和 ¨一枚のレコード¨ ~ダントンとサドの世紀~より引用)などという文章にぶつかってしまうと、もう分からなくなる。そこで、ついに音楽辞典を買うことにした。

あんまりハードな辞典では使いこなせない気がしたので、音楽小辞典(音楽之友社)という小さな辞典を購入した。リズムやテンポなど基礎的な言葉からさらい直し、徐々に難易度の高い用語へと進んでいっているけれど、これがとても楽しい。

音楽小辞典に収載されているのは、メインが西洋音楽に関係した言葉なのだが、例えば「ソナタ」という一つの言葉の解説に約2ページもの紙数が費やされているのを見たりすると、西洋音楽の発展やその滔々たる時間の流れ、音楽に人生を捧げた無数の人々の存在が感じられるようで、本当に圧倒されてしまう。

散文的な秋の始まり

例えば都内でも、高尾山や奥多摩の方には秋の気配がしっかりと届いているのだろう。あいにくトレッキングや登山の趣味がないので、そこら辺は想像の域を出ない。僕の住む区は今日は一日、残暑と初秋の空気が混じり合ったような微妙な陽気だった。

夕食をとろうとわざわざ電車に乗って出向いた戸越銀座商店街の通りを、ぶらぶら歩く。レトロな外観をしたアパートや、不思議な活気の支配する定食屋、飲み屋を横目に見ながら、この街へ引っ越してきたらどんな生活を送れるだろう?とちらりと考えたりした。間もなく22時という時間帯に、肥満への危機感をうっすらと感じながら、とあるラーメン屋でチャーシュー麺を食べる。店には僕の他にお客は一人。店員二人は正月の営業時間の話などして暇をもて余していた。

再び電車に乗り込み、食べた後は軽く運動を、とばかりに途中下車して自宅までゆっくりと夜の散歩をする。秋はランニングに向いているのだろうか。ランナー4、5名とすれ違う。みなスリムな体型をしている。僕はジム通いはしているけれど、走るのは苦手だし、走るとすぐに風邪をひくので、ランナーには尊敬の念を抱いている。走り続けられるということは、己の生活習慣そして肉体を律することができる強靭な精神を、その人が持っていることの証だ。

そろそろ僕も体を絞らなければ。10月、11月、12月と今年は残り3カ月ある。まずは、夜中にラーメンを食べてしまうような精神からなんとかしなければいけない。

アンドラーシュ・シフのパルティータ

秋雨前線が居座り、台風も近づいてきて、今晩は都内でも雨がよく降っている。基本的に雨は好きではないけれど、雨がしきりに降ると大気中の塵や埃が洗い落とされ、空気が澄みわたりそうな気がして、傘をさして歩いていると思わず深呼吸したくなることがある。

雨が降り続くこんな夜はバッハを聴くに限る。バッハの曲はどれも、楽曲の形式という枠から音楽がはみ出したり溢れたりすることがないようで、中味が詰まって充実している。そういう点で、聴いていてたまに息苦しく感じられることもある。一方で、一つの楽曲の中で音楽が満ち満ちていき、果てしなく自己増殖していくような感覚を覚えさせられることもある。バッハの宇宙、音楽の宇宙が展開していく様が聴きとれるのだ。

今日は、アンドラーシュ・シフが弾くパルティータの全曲に耳を傾けた。シフはとても上手いピアニストだ。モーツァルトシューベルトもバッハもそつなく弾きこなす。ただ、上手いけれど個性的なタイプではないから、玄人受けはよくないかも知れない。実力はあるのに音楽評論家の覚えが良くない点では、どこかアシュケナージに似ている。

シフが弾くパルティータは、音が粒立っていて、音楽の流れが自然で、安心して身を任せていられる。タッチがやさしいのだろう。無駄な力が入ることはなく、ひたすらバッハの音楽に奉仕することで、ありのままに音がたち現れては消え、また現れては消えていく。あまりにあっさりしているので人によっては好みが分かれるかも知れないが、シフのバッハを聴いていると、彼が現代のピアノ演奏の一つの極点を確かに示しているのが分かる気がする。

リッカルド・シャイー

リッカルド・シャイーを初めて聴いたのは、中学生のときだった。シャイーがロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団と録音したストラヴィンスキーの¨ペトルーシュカ¨と¨プルチネッラ¨が新聞のCD新譜評で取り上げられているのを読み、いそいそと買いに行ったのである。操り人形を描いたカラフルなジャケットの印象とともに、冒頭から色彩豊かな管楽器群が飛び出してくるペトルーシュカの音響は、僕の心に強いインパクトを残した。クラシックにもこんな楽しい曲があるんだ、と心が躍ったのを思い出す。

それからしばらく経ってから、中古店でシャイーが振ったマーラーの4番を買い、聞くことになった。マーラーの4番はそれまでにケーゲルの盤を持っていたのだが、シャイーが繰り出す音はケーゲルのとはかなり違っていた。まず、最初に鳴り響く鈴の音が、シャイーの盤では実にきらびやか、涼やかで鮮烈なのだ。きらびやかに聞こえるのは、世界に冠たる録音技術を誇るデッカの盤だからということもあるとは思う。しかし、美音の大海に身を浸してみると、シャイーという指揮者が、一音たりともおろそかにすることがない真摯な音楽づくりを志していることが伝わってきた。

シャイーとコンセルトヘボウのコンビでいえば、ブラームス交響曲全集、マーラーの1番、ブルックナーの8番など、どれも音が明るく、アンサンブルの純度は素晴らしく高く、美麗の限りを尽くして天上世界を垣間見せるような名演揃い。クリーヴランド管との¨春の祭典¨も、野性味という点ではいま一歩な感じはあるものの、現代オーケストラの上手さをフルに示した点で文句のつけようがない。Youtubeで聞いたライプツィヒ・ゲヴァントハウス管とのブランデンブルク協奏曲も、楽しく、軽やかで、こんなバッハもありえるのかと驚かされた。

シャイーはイタリア人だから、ラテン気質が音楽にも出てくるのだと解説している人があったが、基本的にシャイー自身が根の明るい人間なのだろうと思う。振る人間が変われば、出てくる音もまったく変わってくるのだ。それを堪能するのがクラシック音楽観賞の楽しみである。

心を鎮めることは大切

このブログではなるべくネガティブなことは書かないようにしているが、今日はその禁を破ってネガティブなことを書いてみる。

ここ2、3日、なんだか気持ちが落ち着かない。というか、かなりむしゃくしゃする。仕事のストレスもあるし、アパートの隣の部屋に住むオバサンが毎日騒音を立てるのにムカついていることもある。天気も不安定で腹が立つ。おまけに、この界隈で祭をやっているせいで真っ昼間から太鼓の音が延々響いてきてキレそうになる。寝覚めが悪く、起きてすぐぐったりしている。などなど。一つ一つを取り上げればどれも大したことではないが、こちらの心がささくれ立っていると、泣き面に蜂、弱り目に祟り目で、ムカつくことがどんどん重なってくるような気がして、世の中を呪詛したくなる。

瞑想に親しむようになってから、ストレス耐性は高まったように感じているけれど、毎日ニコニコ笑顔で過ごせるかというと、やはりそういうわけにはいかない。嫌なことってあるものだ。瞑想をしてかえってぼーっとしてしまう日もあって、そこら辺は習熟が要るのかも。

心を鎮めることは何にもまして大切だ。外界で何が起ころうとも、心が静かに整ってさえいれば、やり過ごすことができる。引き寄せ的に解釈すれば、むしろ、心を常に鎮めておければそもそも外的環境に波風が立ちにくくなるのだろう。日々のストレスを散らす工夫、気分転換、良質な睡眠、深い瞑想。これらに集中しようと思う。