Dear-Abbadoのブログ

折々の雑感を綴っていきます。

「男はつらいよ」を観る楽しさ

渥美清が主演した「男はつらいよ」シリーズを観続け、とうとう36作目まできた。何気なく1作目のDVDを借りてきて観たら、想定外(失礼)に面白く、どうせなら全48作を観ようと思って借り続けている。

寅さんが柴又へふらっと帰ってくる→おいちゃん、おばちゃん、さくらと喧嘩→寅さんがまた旅に出る→旅先で女性に惚れる→振られて傷心を癒やす旅に出る。どの回もおおまかこんな展開で、さすがに30作を超えたあたりから中だるみというか、脚本もダレてきたのがよく分かるのだが、この究極のマンネリズムをそれでもなんとか見せてしまうのはさすが渥美清の演技、そして山田洋次と松竹の力というべきだろうか。

男はつらいよ」の見所は色々あって、マドンナが誰で寅さんとどんな掛け合いを見せるかというのも大きいけれど、フーテンの旅先で広がる美しい風景の数々は目に焼きつく。公開当時、スクリーンに映し出される日本各地を目にして、旅心を刺激された人たちも多かっただろうと思う。それから、田舎のお婆ちゃんと寅さんのふとした会話。柴又の¨とらや¨のみんなとタコ社長が、寅さんの噂話をしながら囲む食卓。柴又の街の佇まい。

また37作から先を観ていくわけだけれど、さくらがさらに老け、渥美清が病気で弱っていくのがあらわになってくる予感を一方で抱きつつ、どんな最終作へと辿り着くのか、楽しみでもある。

今日もコーヒー中毒

コーヒーがとにかく好きだ、という人は多いと思う。僕もそうで、平日は毎朝必ずセブンイレブンのセルフドリップ式アイスコーヒーを買って飲む。朝食は絶対に食べないけれど、コーヒーを欠かしたことはない。常識的には朝ごはんも食べずに空きっ腹にブラックコーヒーを入れたりしたら胃が荒れると思われるかも知れないが、僕の場合は午前中はブラックコーヒーだけで過ごした方が心身ともにしゃきっとするし、仕事も捗る。もちろん午後もコーヒーを飲む。

近所にコーヒーのとても美味しい喫茶店を見つけてからは、毎週一度は必ず通っていて、平日のコーヒー代も合算すると月に7000円ほどつかっている。酒好きな人は月に数万円くらい酒に支出するだろうけれど、僕もコーヒーにそこそこ出費している。今日も近所の喫茶店でコーヒーを飲みながら、この記事をしこしこ書いている。

全日本コーヒー協会HPの記述によると、科学的にはコーヒーに中毒性はないらしい。ただ、コーヒー好きな自分の実感からすると、コーヒーを飲まないとなんだか落ち着かない感じになってくる。むずむずしてくる。多分、カフェインとコーヒーの香りに禁断症状を覚えるのだと思う。旅行のときもコーヒーを飲まない日はなくて、素敵な店との出会いに期待しながら1日に4~5店をまわってコーヒーを飲みまくってしまう。

トゥーランガリラ交響曲

先日タワレコで買ってきた中の一枚、メシアントゥーランガリラ交響曲を聴いた。小澤征爾トロント交響楽団による1967年の録音。トゥーランガリラ交響曲は、名前だけは前々から知っていたが、曲自体は初めて聴く。

楽章というか独立した部が10もあり、この盤ではTotal Playing Time 76:56と長大。喫茶店に入ってポータブルプレイヤーでなんとなく聞き流していたのだが、途中で聴き馴染みのあるようなメロディーが出てきた。N響アワーのオープニングに使われていたらしいから、そのときに聴いたのかも知れない。

トゥーランガリラというわけの分からない名前から凄まじい音の洪水を予想していたが、案外大人しい曲という印象を受けた。ちなみに、ライナーノーツによるとサンスクリット語でトゥーランガは時、リラは遊びや愛を意味するのだそう。要所要所で、ピアノの他に、びよょ~ん、みょ~ん、という不思議な音を発するオンド・マルトノが登場して、そのオンド・マルトノの音になぜかレトロな感覚へ誘われた。

小澤さん指揮のディスクは、このメシアンの他に、ピーター・ゼルキンと協演したバルトークのピアノ協奏曲1、3番を買ってみた。なかなか良い。どちらも、小澤さんが30代前半の頃の録音だからなのか、音が生き生きとしている。

衝動買いと土用シーズン

日用品以外で普段買うものといったら、僕の場合は本、CD、レコードくらいしかない。服は色褪せてもまだ着るし、靴も中敷きが擦れ底が減っても履き倒す。仕事用の革靴も十二分にくたくたになっているけれど、気にせず履き続けている。

ただ、その革靴の使用も限界に近づいていて、今日こそは会社帰りにでも買いに走らなくてはと思っていた。思ってはいたが、妙な衝動に駆られて渋谷のタワレコまで出かけ、革靴の代わりにクラシックのCDを買ってしまった。それも、目当てのディスクが無かった腹いせ(?)に、あれこれと3枚も買ってしまった。

先週末の土曜日は「土用の丑の日」だったが、いまはちょうど土用のシーズン。今年の夏土用は7月19日に始まっていて、8月7日の立秋まで続く。四季の境目に巡って来る土用の期間は、心身とも不安定になり、衝動買いなどをしやすくなるという説がある。

一時期僕が凝っていた気学(方位の良し悪しを云々する日本発祥の占い)では土用のタブーというのが色々とあり、その一つが買い物だった。曰く、土用に買った電化製品はすぐに故障する、大きな買い物をすると不良品をつかまされる、等々。しかし、土用の期間に販売された車には際立って多くリコールが発生するとか、7月末に買ったクーラーに限ってよく壊れるなんて話は聞いたことがないし、そういう統計もないだろうから、きっと土用の買い物タブーは迷信だと思う。

確かに、梅雨が明けて夏本番という今の時期は暑さに体が慣れていないために体調を崩しやすい。だから夏の土用には鰻を食べて力をつけるのだ。そういう意味では、土用の迷信も古くから言い伝えられる一つの戒めくらいにはなるだろう。

結局、僕の場合、買うべき物を買わずにCDを買いに行ってしまったのを土用のせいにできないか思わず知らず考えていたのだ。季節のせいにしておけば誰も困らない。自分が抜きがたく持っているそういう弱さにまた気づかされることになった衝動買いではあった。

基礎的生活力の衰微

なんとも仰々しいタイトルを付けてしまった。。

先日、まったくの思いつきから漬物をつくってみた。実家では祖母や母親が糠漬けやら浅漬けやらをつくっていて、子供の頃にそれを手伝ったりしたことはあったが、ちゃんとした漬物の作り方というのは正直言って分かっていなかった。

そこで、インターネットで検索し、作り方を調べることにした。便利な時代ではある。結局、野菜に塩をまぶしてもみ込み、滲み出してきた水分と一緒に適当な容器の中でそのまま漬けておけば乳酸菌発酵が進んで漬物ができ上がると判明。そして、その通りにつくってみた。野菜は、キャベツとラディッシュ、胡瓜を用意。適当な物がなかったので、容器はジップロックを使った。

1~2日漬けたところで食べようと思っていたので、翌々日に喜び勇んでジップロックを開封した。ぷーんと漬物の匂いが漂う。発酵している証拠だ。そして、食べてみてひっくり返りそうになった。猛烈にしょっぱいのだ。本当に震え上がるくらいにしょっぱい。漬け過ぎたのか、塩が多過ぎたのか。。もったいないので我慢して食べていたら、なんだかぐったりしてしまい、しばらく寝込んでしまった。

ここまでは笑い話だろう。でも、基本的なおかずの一つとも言える漬物すら満足につくれなかったことはちょっと反省しなくてはいけない。漬物なんてスーパーやコンビニへ行けば簡単に手に入ってしまう。つくりたければレシピもネットで調べられる。が、そうやって出き合いのものに頼っているうちに、いざというときに何も調理できない人間になってしまう。現にこの僕がそうだ。基礎的生活力の衰微、生きる力の減退である。

残った漬物は、もったいないけれどすべて廃棄した。懲りずに再度漬物に挑戦して生活力を鍛え直すべきか、否か。悶絶するくらいのあのしょっぱさを思い出して、少し逡巡している。

田舎の良さ

この三連休に茨城県にある実家へ帰ってきた。

朝は鳥の囀りで目が覚める。居間を網戸にすれば風が草と土の薫りを運ぶ。庭で焚き火をすれば明かりにひかれてカブトムシが飛んでくる。犬の散歩へ出れば見渡す限りの田んぼと芝生。そして夜は静かに虫の音が響く。今日はしばらくぶりに蛇まで見た。

田舎は変わらない。新しい家が建ったり、空き地に太陽光パネルが置かれたり、街灯がLED(多分)になったりと小さな変化はあるけれど、田舎らしい良さはそのままだ。

夜、枯れ芝を焚く煙の匂いがどこからともなく漂ってくる。夏虫がすだくのを耳にしながらその匂いを嗅ぐと、心の奥深くから幼い頃の記憶がふっと浮かび上がってくるようで、何とも言えない不思議な気持ちになる。

三井理峯の政見放送

参院選を前に調べものをしていたら、奇妙な動画がヒットした。三井理峯という女性の政見放送だ。

Youtubeで検索するといくつか動画が出てくるので、怖いもの見たさで見てみるのもいいかも知れない。資料を見たままモゴモゴとした発声で訥々と訴える姿には、何かしらこちらに届くものがある。言い方はキツいけれども、妖しい老婆の鬼気迫る訴えというか。

三井理峯という方は、2002年まで生きておられた(91歳で逝去)社会活動家で、小学校教師を経て政治的な言動を盛んにされるようになったらしい。衆院選、都知事選、参院選に何度もチャレンジされ、毎回苦杯を舐められている。その名も強烈な¨我は平民¨なる著作も残したそうだが、現在入手は困難なもよう。これまで、こんな方がいたなんてことは当然知らなかった。

どんな事柄についても、深く研究しようと思ったら最低でも関連書籍は手にしなければならないとは思うが、今回初めて三井理峯氏の存在を知ることができたように、インターネット時代だからこそ、埋もれている過去に容易に触れることができるということに感謝したいと思う。