Dear-Abbadoのブログ

折々の雑感を綴っていきます。

大人になるということは

喫茶店に入って文庫本を読む。いつも通りの週末の過ごし方。今日入った京急蒲田の喫茶店は客席と客席の間が狭く、聞くつもりはないのに隣の客のお喋りが耳に入ってきて、読書に集中するのに苦労した。こんなとき携帯音楽プレイヤーは重宝するんだろう。

聞くともなく他人の会話を聞いていると、当たり前だけれど人によってトピックは様々で、人それぞれ頭の中はてんでバラバラだということが分かる。

最初に右隣の席に来た女の子二人がしていたのは、それなりにうまくいっているお互いの恋愛の話。次にその席へ来た屈強そうなオバサンは開口一番「頭にくる日は他のこともいろいろ頭にくるね!」、その後は連れのおとなしそうで無口なオジサンを慰めながら、病気やグルメや学歴の話をしたり。一方、左の席にまず来たのは小さい女の子を連れた母親とオバサンのグループで、話題はもっぱらその女の子の挙動。そのグループが去り、代わりに来たのは女の子3人組。こちらは、一人がうまくいっていない恋愛の話を切り出してから、結婚の話や休日の計画、転職の話などをしていた。

昔、ある本に「大人になるということは、他人という存在を知ることだ。自分と他人は違うということを知っていくことだ」と書いてあったのを、ふと思い出した。人はそれぞれ異なる存在だ。肉体というハードの構造やその性質は、だいたいみな同じだけれど、精神や気質はまったく違う。ユングが提唱した普遍的無意識とかは多分あると思うし、時代精神というのも間違いなくあると思う。そういう、民族や人類の意識の底にあって、底に溜まっていって、僕らを規定しているものはあるはずだけれど、一人ひとりの人間の違いというのは、それはとても大きいと思う。

親兄弟であれ、友達、恋人であれ、最後の最後のところでは他人であり、結局のところは分かりあえないところがある。自分のことだけ取り上げてみても、自分の心の中にこんな感情があったのか?というような体験をして驚かされることもあるくらいなのだ。自分でも知り尽くせていない自分である。まして他人のことなど、理解できた、分かりあえたと思う方がおかしい。

まぁ、他人同士違うからこそ理解し合えるよう努力すべき、という方向性もあるとは思う。でも、僕の思考はそこまで熟して(?)もいないし、親切でもない。自分と他人とは違うというのが、あらためての、僕の人間観のベースにある。場末の喫茶店でぼーっとしながら、そんなことを考えた。