Dear-Abbadoのブログ

折々の雑感を綴っていきます。

衝動買いと土用シーズン

日用品以外で普段買うものといったら、僕の場合は本、CD、レコードくらいしかない。服は色褪せてもまだ着るし、靴も中敷きが擦れ底が減っても履き倒す。仕事用の革靴も十二分にくたくたになっているけれど、気にせず履き続けている。

ただ、その革靴の使用も限界に近づいていて、今日こそは会社帰りにでも買いに走らなくてはと思っていた。思ってはいたが、妙な衝動に駆られて渋谷のタワレコまで出かけ、革靴の代わりにクラシックのCDを買ってしまった。それも、目当てのディスクが無かった腹いせ(?)に、あれこれと3枚も買ってしまった。

先週末の土曜日は「土用の丑の日」だったが、いまはちょうど土用のシーズン。今年の夏土用は7月19日に始まっていて、8月7日の立秋まで続く。四季の境目に巡って来る土用の期間は、心身とも不安定になり、衝動買いなどをしやすくなるという説がある。

一時期僕が凝っていた気学(方位の良し悪しを云々する日本発祥の占い)では土用のタブーというのが色々とあり、その一つが買い物だった。曰く、土用に買った電化製品はすぐに故障する、大きな買い物をすると不良品をつかまされる、等々。しかし、土用の期間に販売された車には際立って多くリコールが発生するとか、7月末に買ったクーラーに限ってよく壊れるなんて話は聞いたことがないし、そういう統計もないだろうから、きっと土用の買い物タブーは迷信だと思う。

確かに、梅雨が明けて夏本番という今の時期は暑さに体が慣れていないために体調を崩しやすい。だから夏の土用には鰻を食べて力をつけるのだ。そういう意味では、土用の迷信も古くから言い伝えられる一つの戒めくらいにはなるだろう。

結局、僕の場合、買うべき物を買わずにCDを買いに行ってしまったのを土用のせいにできないか思わず知らず考えていたのだ。季節のせいにしておけば誰も困らない。自分が抜きがたく持っているそういう弱さにまた気づかされることになった衝動買いではあった。

基礎的生活力の衰微

なんとも仰々しいタイトルを付けてしまった。。

先日、まったくの思いつきから漬物をつくってみた。実家では祖母や母親が糠漬けやら浅漬けやらをつくっていて、子供の頃にそれを手伝ったりしたことはあったが、ちゃんとした漬物の作り方というのは正直言って分かっていなかった。

そこで、インターネットで検索し、作り方を調べることにした。便利な時代ではある。結局、野菜に塩をまぶしてもみ込み、滲み出してきた水分と一緒に適当な容器の中でそのまま漬けておけば乳酸菌発酵が進んで漬物ができ上がると判明。そして、その通りにつくってみた。野菜は、キャベツとラディッシュ、胡瓜を用意。適当な物がなかったので、容器はジップロックを使った。

1~2日漬けたところで食べようと思っていたので、翌々日に喜び勇んでジップロックを開封した。ぷーんと漬物の匂いが漂う。発酵している証拠だ。そして、食べてみてひっくり返りそうになった。猛烈にしょっぱいのだ。本当に震え上がるくらいにしょっぱい。漬け過ぎたのか、塩が多過ぎたのか。。もったいないので我慢して食べていたら、なんだかぐったりしてしまい、しばらく寝込んでしまった。

ここまでは笑い話だろう。でも、基本的なおかずの一つとも言える漬物すら満足につくれなかったことはちょっと反省しなくてはいけない。漬物なんてスーパーやコンビニへ行けば簡単に手に入ってしまう。つくりたければレシピもネットで調べられる。が、そうやって出き合いのものに頼っているうちに、いざというときに何も調理できない人間になってしまう。現にこの僕がそうだ。基礎的生活力の衰微、生きる力の減退である。

残った漬物は、もったいないけれどすべて廃棄した。懲りずに再度漬物に挑戦して生活力を鍛え直すべきか、否か。悶絶するくらいのあのしょっぱさを思い出して、少し逡巡している。

田舎の良さ

この三連休に茨城県にある実家へ帰ってきた。

朝は鳥の囀りで目が覚める。居間を網戸にすれば風が草と土の薫りを運ぶ。庭で焚き火をすれば明かりにひかれてカブトムシが飛んでくる。犬の散歩へ出れば見渡す限りの田んぼと芝生。そして夜は静かに虫の音が響く。今日はしばらくぶりに蛇まで見た。

田舎は変わらない。新しい家が建ったり、空き地に太陽光パネルが置かれたり、街灯がLED(多分)になったりと小さな変化はあるけれど、田舎らしい良さはそのままだ。

夜、枯れ芝を焚く煙の匂いがどこからともなく漂ってくる。夏虫がすだくのを耳にしながらその匂いを嗅ぐと、心の奥深くから幼い頃の記憶がふっと浮かび上がってくるようで、何とも言えない不思議な気持ちになる。

三井理峯の政見放送

参院選を前に調べものをしていたら、奇妙な動画がヒットした。三井理峯という女性の政見放送だ。

Youtubeで検索するといくつか動画が出てくるので、怖いもの見たさで見てみるのもいいかも知れない。資料を見たままモゴモゴとした発声で訥々と訴える姿には、何かしらこちらに届くものがある。言い方はキツいけれども、妖しい老婆の鬼気迫る訴えというか。

三井理峯という方は、2002年まで生きておられた(91歳で逝去)社会活動家で、小学校教師を経て政治的な言動を盛んにされるようになったらしい。衆院選、都知事選、参院選に何度もチャレンジされ、毎回苦杯を舐められている。その名も強烈な¨我は平民¨なる著作も残したそうだが、現在入手は困難なもよう。これまで、こんな方がいたなんてことは当然知らなかった。

どんな事柄についても、深く研究しようと思ったら最低でも関連書籍は手にしなければならないとは思うが、今回初めて三井理峯氏の存在を知ることができたように、インターネット時代だからこそ、埋もれている過去に容易に触れることができるということに感謝したいと思う。

百人町というカオス

エスニック料理好きの知り合いKさんに連れられて、久しぶりに新大久保へ出かけた。

新大久保駅周辺はアジア系を中心に外国人が多いことで有名だが、その中心街である百人町はカオスだ。韓国、中国、ネパール、タイ、アラブ、南米など、あらゆる国、地域からの人でごった返し、湿度と日照りのせいもあってクラクラした。駅近くのマクドナルドでは韓国人とおぼしき女の子たちが列をなしていて、レジ対応していたのも全員外国人だったのには驚愕させられた。

混沌とした街だけに、道は薄汚れているし、裏路地へ足を踏み入れれば怪しげな集合住宅があるし、どこからともなくすえたにおいも漂ってくる。東京の一角にこんなカオスが現実にあることを実感しながら、松浦寿輝芥川賞受賞作「花腐し」の舞台が確か百人町あたりに設定されていたことをふと思い出したりした。

住んでいる人には失礼な言い方になるけれど、日本とは思えないようなその雰囲気は、毎日接するにはちょっとつらいものがある。でも、疲れたときに百人町へ出かければ元気をもらえる。眼で見て、耳で聞いて、鼻で嗅ぐ、手っ取り早いショック療法としてよく効く、そんな気がする。

図書を殺菌してどうする?

最近、図書館で書籍を殺菌するサービスがあるらしい。図書殺菌ボックスなんてのを設けている図書館もあるようだ。はっきり言って馬鹿馬鹿しい。汚物にまみれたような本はもちろん別として、図書館の本は、他人と共有する前提で貸し出されているわけであって、そういう公共の本から自分の手に雑菌がうつるのが耐えられないような人たちは図書館を利用するべきではないと思う。

小さい子供とお母さんが安心して図書館の本を利用できるように、といったことらしいが、だいたい図書館の本てそんなに汚れているだろうか?図書館で借りた本から疫病が流行したなんて話も聞いたことない。

本質的なことを言ってしまうと、図書館で借りてなんていないで、本当に本が読みたいのであれば身銭を切って買うべきだ。本を買う金を惜しみつつ、他人が雑菌をつけた公共の本には触れたくないということであれば、笑止千万。僕は図書館は2~3年に一回利用するかしないかという程度で、ほとんどまったく利用していない。買って読まないと読んだ気がしないし、頭にも残らない。

図書館での書籍殺菌もそうだけれど、いまはどこへ行っても抗菌・滅菌・殺菌のグッズやサービスがあふれている。トイレにはウォシュレットがついているし、便座クリーナーまである。電車の吊り革も抗菌仕様。オフィスビルのエントランスには消毒用アルコールスプレーが常備されている。おまけに夏でもマスクを手放さないような人までいる。

そもそも人間の皮膚には皮膚常在菌が無数に棲みついている。彼らは絶妙なバランスを保ちながら、皮膚に有害な菌が繁殖したりしないよう働いてくれている。また石鹸カスが皮膚に残った場合も、皮膚常在菌が分解して無害化してくれるらしい。過剰な殺菌をすれば、そういった有用な皮膚常在菌まで殺してしまうことになるのだ。マスクもそう。普通に鼻呼吸をしていれば鼻毛と鼻の粘膜によって外からのウィルスや菌はかなりフィルタリングされるはずだか、マスクを常用することによって、マスクを外したときの抵抗力がかえって減衰するのではないか。マスクをすることで口呼吸に慣れてしまっているようでは本末転倒だ。

図書館の本まで殺菌してしまような歪んだ衛生観念が広まれば、我々自身が逆に免疫機構を弱らせてしまうだけのような気がする。

ジャムトーストにメロン

名古屋の喫茶店は面白い。

日曜日、熱田神宮への参拝を終えた後に、とある小さな喫茶店に入った。ジャムトーストとアイスコーヒーを注文し、しばらくして出てきたものを見て驚いた。分厚いトースト二切れに、カットメロンまで付いてきたのだ。東京の喫茶店に慣れきってしまっている僕は、薄いトースト一切れが出てくるだけだろうと思い込んでいた。まだお昼前だったので、軽く口に入れるにとどめようと考えていたのだけれど、二切れのトーストとメロンにお腹がいっぱいになってしまった。嬉しい悲鳴ではあったけれど。

初日に友達と入ったカフェでも、こんもりと盛り上がったキャベツの千切りの上に厚切りトマトとキュウリを乗せたサラダが出てきたのに少しびっくりした。他の店でも、コーヒーのお茶うけとしてあられが出てきたりして、これは噂には聞いていたことだったけれど、実際に体験してみると新鮮だった。

名古屋の喫茶店を色々体験してみると、東京の喫茶店やカフェがいかにもけち臭く、スノッブに感じられてしまう。名古屋の喫茶店文化を味わい尽くそうと意気込んでいたものの、二日間で行けたのは5店。まだまだ面白い出会いがありそうで、名古屋へは年内にまた行きたい。