Dear-Abbadoのブログ

折々の雑感を綴っていきます。

名古屋への鈍行旅行

転勤で名古屋暮らしをしている友達に会いに行くついでに、明日から名古屋へ旅行する。品川から鈍行でゆるゆると。名古屋は通過したことは何度もあり、駅前で一泊したこともあるけれど、まともに観光したことは全然ない街だ。その分、楽しみでもある。ユニークな喫茶店文化があるらしいので、喫茶店好きな人間としては期待が膨らんでしまう。名古屋城はつまらなそうだし混みそうなのですっ飛ばして、熱田神宮、徳川園あたりからまわろうと計画している。あとは、小倉トーストとか味噌カツてんむす台湾ラーメンとか、名古屋ならでは定番の食べ物をがっつり食べてみたい。インターネットで色々検索していたら、「名古屋はつまらない街」なんていう悲しい記事がいくつかヒットした。であれば僕はあえて面白そうなポイントを見つけてこようと思う。

新聞を読まない人

佐藤優氏の「知の教室」を読んだら、こんな刺激的な記述があった。「これからの時代、中産階級は二分化されて、上層は富裕層に近づき、下層はプロレタリアートに近づくと思います。その分水嶺が『新聞を読んでいるかどうか』になってくるでしょう」。ドキッとした。僕は新聞を全く読んでいない。10年以上、新聞を読まない生活を送っている。世間で起きている出来事については、ヤフーか日経のウェブサイトで適当にピックアップして読んで知る程度だ。上記の佐藤氏の指摘は池上彰氏との対談で出てくるのだが、「情報収集の基本は新聞を読むことにある」のだそうである。対談では「プロレタリアート」でどういう種類の人たちを意味しているかには詳しくは触れていないが(注記には¨労働者階級のこと¨と、普通の意味のみ書かれている)、先の見通しを持てずにただ流されて生きていくだけの人たち、その日暮らしの人間みたいな意味で言っているのだろう。この説が正しければ、僕はプロレタリアート予備軍なのかも知れない。一方で、新聞しか読んでいないような人とは一緒にされたくない気も正直した。世界情勢についてしっかり取材されたものを新聞で読んでおくことは必要だろう。その指摘は正しいと思う。でも、多分僕はこれからも新聞は購読しないだろうし、新聞を読むなら良書を一冊でも多く読みたい。プロレタリアートに近づくのならそれもよいかな。読書をせず、新聞も読まず、社交性は皆無で世間の出来事や政治にも疎かったけれど、素晴らしい音楽を後世に遺したブルックナーのように生きることができたら、その方がよほど良い気がする。

都知事選がやってくる

都知事選が7月31日に行われる。猪瀬氏、舛添氏ともにお金の問題で失脚してしまったから、次こそはそこら辺がなるべくクリーンな、長く務められる人を選ばないといけない。両氏に一票を投じてきた都民の一人としての自戒も込めてそう思う。舛添さん批判は世間で袋叩きのようにして行われたから、このブログでは触れないようにしたい。ただ一つだけ、舛添さんが都知事としてビッグなことを進めていてくれたら、湯河原の別荘がどうだとかヤフーオークションで何を競り落としたとか、バカバカしい醜聞は浮かんでこなかったと思う。するべき仕事をしないからスキャンダルばかりが目についてしまうのだ。石原慎太郎都知事だって色々とスキャンダルはあったが、東京オリンピック招致活動をはじめとしたビジョンや構想があったし、またそれをアピールする力にも長けていたから、問題が浮上しても大事には至らなかった。猪瀬さんはたった1年、舛添さんも2年余りで失脚。1年や2年で都知事が交代していたのではどうしようもない。次の人にはまず一期、4年間しっかり務めてもらいたい。それから、政治はおふざけではないので、スポーツ選手とかタレントとかを担ぎ出すのはいい加減やめるべきだ。ワイドショーにネタを提供することになるだけで都民はもううんざりしている。

ポテトチップスとイノベーション

最近、コンビニに入るとちょっと感動してしまう。ポテトチップスの新味が次から次へと出ているからだ。よく行く近所のローソンで今日あらためて確認してみたが、極旨担々味、瀬戸内レモン味、トースト味、牛乳味、グリルチキン&サルサ味、サワークリーム&ハラペーニョ味、うにカルボナーラ味、カツカレー味などなど、これでもかこれでもかという感じで色々な味のチップスが販売されていた。

一昔前までは、塩味、コンソメ味、青のり風味、コンソメパンチ味、わさび風味、くらいしかなかったような気がするけれど、あっという間に新奇な味が増えたようだ。ポテトチップスは、ベースのじゃがいもとの味の相性さえ良ければ、様々な味を開発する余地があるのだろうと思う。イノベーションとまで言っては大げさだし的外れかも知れないが、例えば牛乳味やトースト味なんていうのは想定外だし、消費者からしたら面白いからつい買ってしまう。今日買ってみたのは牛乳味で、食べてみると確かに牛乳らしい味がした。

ジャンクフード好きの僕としては、各社の新商品開発の取り組みを素直に讃えたいし、どんどん競争をしてもらって、さらに意外性があって美味しくて、かつ体にやさしいポテトチップスが市場に出てくることを期待しています。

宇野功芳氏を悼む

音楽評論家・指揮者の宇野功芳氏が亡くなったというニュースを聞いてびっくりした。6月10日に老衰で亡くなられたらしい。享年86。僕は中学生のときにクラシックを聴き始め、宇野さんが書かれた「名演奏のクラシック」からは強烈な影響を受けた。曰く「切れば血の出るような響き」や「阿修羅のような轟き」、「谷間にひっそりと咲く一輪の白百合のよう」「熟成された年代物の赤ワインのよう」といった氏独特の評言を読んでは心躍らせ、これから数々の名盤との出会いが待っているのだと思っては胸をときめかせていた。宇野さんに心酔するあまり、筆致をそっくりまねた音楽寸評を書いたりもしていた。でも、宇野さんが激賞するシューリヒトの指揮でブルックナーの7番(デンマーク国立放送響、1954年録音)を初めて聴いたとき、違和感を覚えるとともに少し不安になった。録音が古過ぎるし、オケも下手。少しも名演に聴こえなかったからだ。ライナーノーツはお約束のように宇野さんが書かれていて、なんか違うんだよなぁと感じつつも「でも、これは歴史的な名演なんだ」と自分を納得させながらがんばって聴き通した記憶がある。その頃は自分の感性が未熟なだけだと思っていた。カラヤンアバドは浅薄で、シューリヒトやフルトヴェングラーが紡ぎ出す音楽こそ魂の響き。そんな風に聴くことができない自分の耳の方がおかしいと思っていた。バレンボイムやドホナーニ、小澤征爾ハイティンクポリーニなどのディスクをいまだにほとんど持っていないのも、宇野さんが彼らを酷評していた影響による。しかし、宇野さんが下す評価がすべてじゃない(当たり前だけれど)とだんだん分かるようになった。ハイティンクも悪くないし、ドホナーニだってキレがあって良い。宇野さんの評論に限らず、世間の評判に惑わされず、まっさらな耳、自分の耳で音楽に触れることが大切なのだと学んだ。そして、カラヤンの音楽は美麗なだけで精神的な深みに乏しい云々という、分かったような分からないような¨精神主義¨を宇野さんが振りかざすことに少し辟易もした。ただ、音楽評論を読むことがこんなにも楽しいと気づかされたことは大きかった。また、宇野さんが推薦してくれたために数多くの名演奏と出会うことができたことに、深く感謝している。ブリュッヘン/18世紀オケによるベートーヴェンの1番(84年録音)、トン・コープマンアムステルダムバロックオケのモーツァルト40番(96年録音)、ボールト/ロンドンフィルによるマーラー1番(58年録音)、コルトーが弾いたショパンのワルツ&バラード集(33、34年録音)、ムラヴィンスキーチャイコフスキー5番(82年録音)、アバドアルゲリッチによるラヴェルのピアノ協奏曲ト長調(84、87年録音)、マタチッチ/チェコフィルブルックナー7番(67年録音)、シューリヒト/パリ音楽院管のベートーヴェン6番(57年録音)などなど。すべて僕の宝です。宇野さんは「名曲とともに」の中でこう言っている。『電車にさえ個性があるのだ。ましてや人間がこの世に生を享けて、可も無く、不可も無くの安全運転で一生を送るのは、あまりにも淋しいではないか。(中略)自分の定められた運命に従って、自然に動き、なおかつ、それが他の人とはっきり違うのが個性というものなのだ』。また「モーツァルトブルックナー」の中では、『ぼくは批評家がいくつも防壁を立て、どこから突っつかれても平気なように武装しながらものを書くのが嫌いなのだ』と語っている。宇野さんはいつも自分の感性に正直だったのだ。こんな熱い魂を持った評論家がいなくなってしまい、本当に寂しい限りだ。宇野さん、長い間ありがとうございました。ご冥福をお祈りしています。

先を見通すことは・・・難しい

YouTubeで麻生・現財務大臣が首相だったときの所信表明演説を見ていて、なんだか感慨深かった。あれからもう8年が経過したのだ。リーマンショック自民党の下野と民主党政権の誕生、東日本大震災、超円高、安倍さんの再登板、アベノミクス、株価回復、東京オリンピック招致の成功、熊本地震などなど色々なことがあったけれど、世の中の変化が激し過ぎて僕はついていけていない。消費増税を再延期したのは正解だったと思うけれど、アベノミクスは明らかに分岐点にさしかかっているし、東京オリンピックも買収疑惑が持ち上がっている。参議院選挙ではおそらく与党が勝利するだろうけれど、この先も何が起こるかは分からない。そのうち民進党政権なんてのが生まれて、また痛い目に遭わされるかも知れない。一歩先を見通せとはよく言われることだ。けれど、こんな世の中にあっては、庶民であってもさらに二歩、三歩先まで見通して生きていかないと、知らず知らずのうちに時代の奔流に巻き込まれて流されていくだけになってしまう。オリンピック後の日本はいったいどうなるだろう。高齢者がますます増え、働かない世代が厚くなるわけだから財政赤字がさらに膨らみ、労働力不足を埋めるために外国人労働者の受け入れが本格化。内憂に気をとられている隙に中国がついに沖縄あたりを侵犯し、眼を覚まされた世論が改憲へと一気に雪崩れ込む。その前に沖縄が勝手に独立してしまい中国の属領になるかも知れない。AIの活用が思いのほか進み、職にあぶれる人が出てくる一方で、医療や介護の問題がうまく解消する可能性もある。でも、やはりそういうサービスは生身の人間にやってもらいたいということで、人心の荒廃みたいなのも広がるかも。こんなあらゆる事態を想定して、政治の世界でも先手先手を打っていってほしいと思うし、僕らも、最低限自分と家族のことは支えられるように戦略を持たないといけない。言うは易し行うは・・・ってところだが。

「南無阿弥陀佛」と称えること

先月末に旅した富山で驚かされたのは、お寺や墓地にある墓石のほとんどすべてに「南無阿弥陀佛」と刻印されていたことだ。「倶会一処」と刻まれた墓石もいくつか目にした。北陸三県は真宗王国だと聞かされていたが、実際に目の当たりにして、なんだか感嘆してしまった。墓所だけでなく、街中でも「南無阿弥陀佛」の石碑を見かけた。茨城県にある僕の実家の宗派は浄土宗で、僕自身も念仏の徒を自認しているので、同じ浄土系に属する宗教風土を持つ富山にはシンパシーを感じるところがあった。さて、そもそも「南無阿弥陀佛」とは何かというと、阿弥陀(アミターバ)という仏様(ブッダ)に南無しますという宣言なわけだ。「南無」は、信頼するとか委ねるとかいう意味の「ナマース」を漢字で音写したものだから、南無阿弥陀佛と称えれば、意味としては「アミターバさん、あなたのことを信頼していますよ。私をあなたに委ねますよ」ということになる。ここからは知人から聞いたことだが、「アミターバ」というのは、否定の接頭辞「ア」と、有限の光とか有限の生命とかいった意味を持つ「ミターバ」がセットになった言葉らしい。だから、アミターバというのは「限りない光」「無限の命」 を意味する。南無阿弥陀佛と称える念仏は「無限の命を持つ仏よ、限りない光を放つ仏よ、私はあなたにすべてを委ねます」という告白になるのだ。浄土宗を開かれた法然上人は、生きている間はできるだけ多く念仏を称えよと説かれた。なるべく心を鎮めて念仏するのが良いが、心が乱れてしまうときには乱れたままで構わないから念仏せよとも言われた。しかし、ひたすら、南無阿弥陀佛南無阿弥陀佛南無阿弥陀佛・・・と繰り返していると分かるが、念仏するうちに心は自然と鎮まってくる。ジョギングを続けているとジョギングという行為に打ち込むこと以外は心から消え出ていってしまうのと同じように、念仏は延々と称えることにこそ、一つの大きな意味がある。念仏するうちに自分という小さな存在を鎮めていき、アミターバという無限の存在にすべてを委譲しますというシグナルを発するのが念仏なのだ。だから正直に言って、人間というものにそもそも大きな価値をおいてはいない。人間の価値よりもっと大きな宇宙のエネルギーみたいなものに我々の存在を預けちゃいましょうという信仰スタイルなわけだ。