Dear-Abbadoのブログ

折々の雑感を綴っていきます。

「只管」という方法論

曹洞宗の開祖、道元が切り開いた境地に只管打座(しかんたざ)というのがあります。

ただひたすらに座る、禅に打ち込む、というあり方です。それによって悟りに到ろうなどという下衆な思いはいっさい排除して、というよりもとよりそんな思いなど心に持たず、ただただ座禅する。

藤澤清造の短篇集を読んでいて「只管」の言葉に久方ぶりに触れ、ここにちょっと書いてみたくなりました。

英会話の大家に、國弘正雄さんという方がいました。同時通訳でも名を馳せた人で、もう亡くなられましたが、國弘さんが提唱した英語力強化、英会話上達のメソードに「只管朗読」というのがあります。

意味のよく理解できる一定の長さの英文を毎日毎日、何度も何度も繰り返して朗読することで、英語の音を自分の耳で聞き口を使って声に出して、頭と体に刷り込んでいくうちに自然と英語が身につくという方法論です。

簡単そうなメソードでありながら、同じ英文を毎日何十回も何百回も口に出せる人など実はほとんどいないそうで、実践できた人のみがその甘い果実を味わえるようです。ある意味で行、それもなかなかの苦行です。

考えてみると、繰り返し繰り返し行うことで達成できること、到達できる境地というのは実に多いです。

道元禅における只管打座は、何ものをも求めずにひたするに打ち座るという一つの絶対的なスタイルですが、考えることなく何かに打ち込むことがもたらすものは意外にたくさんあります。

語学、スポーツ、書、茶道、絵画、踊り・ダンスや音楽など芸事の習熟、禅以外の仏教の行もそうですし、商売、投資のほか、博打だってそうかもしれません。

嫌味半分で挙げると、いまや老若男女が長けているスマホの操作。あれも、ただひたすらにいじっているうちに体に染みついたものの一つでしょう。

少しインチキな中国語も交えて表現すれば、只管打手机(手机はスマホ)になるのでしょうか。ただひたすら手机に打ち込む、と。

只管打手机するうち、手机操作が芸術的なレベルにまで達し、寝ても覚めても手机、手机とももに人生があり、手机なしでは自分が成り立たなくなり、手机と自分が不可分になっていく。恐ろしいですね。そして実際、世界中どこでもみんなそうなっています。

只管○○を生かすも殺すも、自らに由るんですね。

またお会いしましょう。