Dear-Abbadoのブログ

折々の雑感を綴っていきます。

少し危ない話‐方位(その1)

前回の記事でも触れた通り、ひと頃、方位を鑑ることにとても凝っていた。方位というのはつまり、高島暦などによく載っている¨五黄殺¨や¨暗剣殺¨などのよろしくないとされる方位を避け、¨良い方位¨へ出かけることで運気を上げようという、占い・迷信の一つとされるアレのことである。

占いやオカルトの類に眉をひそめる人にとっては、そういうものに真剣に取り組む人間は間違いなく「頭のおかしい奴」だ。しかし、ハマっている当の人間にとっては、そういう観念の世界をいったん自らつくり上げてしまうと、それが真理そのものになる。そして、身の回りに起こることすべてがその観念体系の中できれいに解釈できるような気になってきて、ますますハマることになる。僕が方位にとことん凝っていたときの内面は、まさにこれだった。

占いや迷信を宗教と比較すると、ファクトを抜きにして一つの物語を信じる(信じられる)ことで成り立つ点が共通している部分だろうと思う。宗教と占いが同じものかと言えばもちろん違う。ただ、普遍性のない非合理な思考がすんなり受容されるのが占いと宗教の世界だろうとは思う。

通常、いわゆる宗教というものには魂の救済が用意されている。一方、占いにそれがないのかと言えばこれはちょっと難しい。占い師の元へ足繁く通って悩みを打ち明け、あれこれと託宣をもらって心の安定を得ている人はかなりの数いるだろう。そういう意味では、占いだって魂の救済にいくばくかは役に立っているのだ...。僕はそこら辺についての専門家ではないので、これ以上の言及は避けることにしますが。

前置きが長くなったけれど、今回から数回に分けて、僕が方位に文字通りハマっていた頃のことについて書いていきたい。前置きで書き疲れてしまったので具体的な話はその2で書こうと思う。

やっと新年が始まった気がする

以前、東洋暦をいろいろと調べ、方位だのなんだのを鑑ていたことがあるせいで、グレゴリオ暦での1月1日から新年という感覚にはどうもなじめない。陰が極まる冬至が大晦日でその翌日から新年、あるいは節分が大晦日で立春から新年というのが、個人的にはしっくりくる。

毎月のスタートもグレゴリオ暦と東洋暦では違っていて、例えば2月であれば4日の立春が本来的には月の頭になる。3月なら啓蟄(3月5日ころ)が始まりだ。

気のせいかも知れないけれど、体調の変化を感じるのがちょうどこの東洋暦での節目前後なので、やはり東洋暦は自然の摂理に合っている気がする。というよりも、そもそも天体の運行に基づいて導き出したのが東洋暦なのだろうから、自然の摂理に合致しているのは当然か。

というわけで、明けましておめでとうございます。

全集盤を買うことの良さについて

クラシックが好きな人の中には、例えばモーツァルトのピアノ協奏曲全集やブルックナー交響曲全集、プロコフィエフピアノソナタ全集など、あるジャンルの全集盤CDやレコードを買い集めて聴き比べる喜びを知っている人も多いと思う。

いまはただでさえCDが安いけれど、全集盤で買えばさらに一枚あたりの価格が下がるので、ちょこちょこ買っていくうちに自室のスペースをディスクがどんどん食っていくことにはなる。でも、全集盤を買うことには費用面以外にもメリットがあるのだ。

昨年タワーレコードで買った全集の一つに、ブロムシュテット指揮/ドレスデン・シュターツカペレによるシューベルト交響曲全集がある。正直、未完成とグレートしか聴いたことがなく、その他のシューベルト交響曲なんて大したことないだろうとたかをくくっていた。

が、5番の冒頭で爽やかな管の響きを耳にした瞬間、この愛らしい交響曲の世界にすっかり引き込まれてしまった。なんとシューベルト19歳のときの作品ということで、天才と言う他に言葉が見つからない。旋律は明るく伸びやかに流れ、響きは軽く弾み、完成され切っていないがゆえの素朴な楽しさ、深刻ぶらないからこそ生きてくる音楽の力に溢れていて、僕はこの交響曲第5番がとても好きになった。

先にも書いたが、シューベルト交響曲といったら未完成とグレートの知名度ばかりが突出していて、その他はほぼ陽の目を見ていないといっても言い過ぎではない。全集盤を買わなければ僕も5番という名曲に出会うことはなかった。

どんな作曲家のどんなジャンルであっても、食わず嫌いをせず、とりあえず全集盤を買ってきて一つ一つじっくり聴いていけば、必ずや素晴らしい出会いがある。作曲家がどんな風にスタイルを変化させていったかを知るため、また作曲家の音楽を体系的に理解するためにも、まずは全集盤を買って聴くことが近道になると思う。

銭洗弁天へ初詣に出かける

7日土曜に鎌倉の銭洗弁天へ初詣に行った。今年初めての神社参拝、かつ銭洗弁天に参じたのも初めてで、二重の意味で初詣となった。國學院の大学院で神道学を修めた知り合いが、ここで正月に臨時で働いていると聞き、遊びがてら来たのだ。

鎌倉駅前は相変わらずの人人人でごった返していて、小町通りを人波をかき分けるようにして進み、夕闇迫る中を弁天様へと急いだ。当の神社は山の中腹というか崖を切り崩したような穴の奥にあり、沢山の参拝者でそこそこ活気があった。

本宮の主祭神市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)というらしいが、皆がお金を洗うために目指す奥宮に祀られているのは宇賀神と弁才天。知り合いに解説してもらったが、神社なのに境内に香炉があったりしてどことなく寺の雰囲気をも持ち合わせているのは、宇賀神と弁才天との神仏習合が背景にあるそうだ。どちらも神様だと思うが、弁天様が仏教ルーツの神様だから、神仏習合になっているようだ。

僕は念仏の徒だからお金を洗うのはやめておこうと思ったのだが、結局、せっかくだからと思い直して硬貨を数枚洗った。見ていると、紙幣を5~6枚盛大に銭洗いしている欲深な参拝者もいる。

御守りと同じで、こういうのは気休めが最大の効能であって、お金を洗うだけでお金が増えていくなんて、普通に考えればあり得る話ではない。日銀総裁に参拝に来てもらい日本の財政赤字が目に見えて縮小してくるようなことでもあれば、少しは信じたい気にもなるけれど。

17時を過ぎたころ社務所が閉じ出し、同時にその日のお賽銭が収集される作業が始まるのを目にしたが、金運のご利益に一番あずかっているのは当の銭洗弁天なのかも知れない、と失礼ながら思ってしまった。

インターネット検索ならGoogleSNSならFacebook、通販ならAmazon、コーヒーならSTARBUCKS(どれも米国企業だ・・・)、そして金運上昇祈願なら鎌倉の銭洗弁天。弁天様と営利目的の企業を一緒にするのは申し訳ないけれど、●●なら○○という仕組みを盤石にすることに成功した組織は強い。

ただ僕は生来のひねくれ者なので、蟷螂の斧よろしく、そういうマジョリティによる支配を突き崩すような小さな力に注目してみたいし、いまは小粒でも山椒の実のようにピリリと辛い存在に肩入れしたいと思ってしまう。

40分間あれば

昨年末、「バレンボイム音楽論」を読んだ。バレンボイムは13歳のときにスピノザの「エティカ」を読み、それ以来スピノザから大きな影響を受けているという。「バレンボイム音楽論」には、エティカから引用した記述があちこちにあるだけでなく、コンサートの合間にもエティカを読んでは思索を巡らせることがあるというくだりもあり、スピノザバレンボイムとの深いつながりを感じさせられる。

好きな音楽家が愛読する哲学書ということで、僕も読みたくなり、中公クラシックスから出ている「エティカ」を早速読み始めた。第一部「神について」を途中まで読み進めたばかりだか、なかなか難解だ。スピノザが説く神はいわゆる人格神ではない。スピノザにとって、神はその属性として延長を持つものであり、また自然は神のうちにある。そして、つまるところ、存在するものは神以外にないという。

今年はじっくりエティカを読もうと思う。

実家に帰省して、古い「レコード芸術」を引っ張り出していたら、ある号にバレンボイムのインタビューが載っていた。聞き手は、「バレンボイム音楽論」にも解説文を書いていた岡本稔氏。バレンボイムは世界中でコンサート(指揮とピアノ)をこなす傍ら、数々の録音をリリースしていて、現代のスター指揮者の中でも特に忙しい人種に入るそうだが、精力的な音楽活動について指摘されたバレンボイム氏、答えて曰く 、「私は普段こんなにインタビューを受けないものですから・・・。(インタビュー時間と同様)40分間あれば、シューマン交響曲を指揮することができる」。

そうか、40分あればシューマン交響曲を一曲振れる、そんな発想もあるのかと感心しつつも、多忙極まって、人生の切り売りみたいな生活を送っている(本人は楽しんでいる?)バレンボイムも実は大変なんじゃないかと同情してしまった。でも、いつの時代も、才能がある人はあちこちから声がかかる結果、必然的に忙しくなるもんです。

エティカを読みながら、バレンボイムを聴きながら、僕も、仕事も私生活においても精力的にこなしていこうと、年の始めにあたりぼんやりと考えた。

音の公害

僕は音に敏感なたちで、巷に溢れているあれこれの音に苦痛を覚えることがしばしばだ。

電車内だとアナウンスの音、くしゃみや咳払い、やたら大きな声でしゃべる人の声、携帯音楽プレイヤーの音漏れ。中でも車内アナウンスはかなり不快だ。やれ遅延のお詫びだの駆け込み乗車はやめろだの寒いのでお気をつけくださいだの、うるさいことおびただしい。乗客にはイヤホンで耳を塞いでいる人も多いからそういう人たちにもアナウンスが行き渡るようにということなのか、とにかく信じられないほど音が大きい。

アナウンスの音が小さければ小さいで、俺はそんな情報は知らされなかったとクレームをつける輩が出てくる可能性もあるからということで、あの異常にうるさい車内アナウンスは、鉄道会社なりのエクスキューズなのだろうか。

また、街中に騒音を垂れ流していく廃品回収業者たち。あれは犯罪者に等しい。なにしろ、自分たちの商売のために人様の静寂な環境を破壊してまわるのだ。本当に呆れ果てる。ゴミ集めは無関係な人間に迷惑をかけずにやるべきで、やり方自体がゴミではもうどうしようもない。

あらためて、「感謝する心」の大切さ

現代の日本のような社会に生まれて、生きていると、「感謝する心」というのはなかなか育ちにくいのだろう。自戒もこめて、ふとそんなことを思った。

当たり前のように住む家があり、食べさせてくれる人がいて、コミュニティもある。治安もいい。教育も施してもらえる。テレビはもちろん、パソコン、スマホタブレットまで手に入り、海外旅行にも気やすく行ける。年をとって年金暮らしになっても、高レベルな医療サービスを比較的安く受けることができる。

やはり、日本はとことん ¨ぬるま湯¨ 社会なんだろう。選挙の投票率がいつも低いことから分かるように、ろくに政治参加もしないくせに、何かと言うと国や政治のせいにしておきながら、一方では本格的な暴動やテロなんて誰も起こしはしないし(もちろん起きて欲しくはないが)、せいぜいがデモごっこで終わる。結局、そこまで切羽詰まっていないし、現状の居心地がいいのだ。

でも、豊かな社会がすでにあることにあぐらをかいて、それが未来永劫に続くかのように驕り、まだ足りない、こんなものが欲しいわけじゃない、と誰もがクレーマー化するようになってはお先真っ暗だ。

同じ「まだ足りない」でも、低成長が続けば将来は国民一人当たりのGDPが韓国の半分になってしまう、だから経済成長は続けなければ、という主張は分からないでもない。世界の現実を見た上でのまっとうな危機意識が、そこにはある気がするからだ。

さて、「感謝する心」である。「感謝する心」なんていうと堅苦しく聞こえるけれど、結局それは、物事のよってきたるところに思いを馳せて、その意味を考えるということに尽きるのではないか。

例えば、日本がいま豊かでいられるのは、戦後多くの国民が勤勉に働いた結果であり、経済的な豊かさを維持しようと今現在もあれこれ努めているからに他ならないことに気づくこと。文明の利器であるスマホタブレット端末も、エンジニア達の汗と涙の結果として開発され、いま我々がいじくれるようになっていることに、思い至ること。

これだけ物質的には満ち足りている日本で、感謝の心もこれっぽっちも持てずに、自分の我欲を優先させて権利だけを声高に主張するような人間がいるとしたら、それは野蛮人だ。