現代の日本のような社会に生まれて、生きていると、「感謝する心」というのはなかなか育ちにくいのだろう。自戒もこめて、ふとそんなことを思った。
当たり前のように住む家があり、食べさせてくれる人がいて、コミュニティもある。治安もいい。教育も施してもらえる。テレビはもちろん、パソコン、スマホ、タブレットまで手に入り、海外旅行にも気やすく行ける。年をとって年金暮らしになっても、高レベルな医療サービスを比較的安く受けることができる。
やはり、日本はとことん ¨ぬるま湯¨ 社会なんだろう。選挙の投票率がいつも低いことから分かるように、ろくに政治参加もしないくせに、何かと言うと国や政治のせいにしておきながら、一方では本格的な暴動やテロなんて誰も起こしはしないし(もちろん起きて欲しくはないが)、せいぜいがデモごっこで終わる。結局、そこまで切羽詰まっていないし、現状の居心地がいいのだ。
でも、豊かな社会がすでにあることにあぐらをかいて、それが未来永劫に続くかのように驕り、まだ足りない、こんなものが欲しいわけじゃない、と誰もがクレーマー化するようになってはお先真っ暗だ。
同じ「まだ足りない」でも、低成長が続けば将来は国民一人当たりのGDPが韓国の半分になってしまう、だから経済成長は続けなければ、という主張は分からないでもない。世界の現実を見た上でのまっとうな危機意識が、そこにはある気がするからだ。
さて、「感謝する心」である。「感謝する心」なんていうと堅苦しく聞こえるけれど、結局それは、物事のよってきたるところに思いを馳せて、その意味を考えるということに尽きるのではないか。
例えば、日本がいま豊かでいられるのは、戦後多くの国民が勤勉に働いた結果であり、経済的な豊かさを維持しようと今現在もあれこれ努めているからに他ならないことに気づくこと。文明の利器であるスマホもタブレット端末も、エンジニア達の汗と涙の結果として開発され、いま我々がいじくれるようになっていることに、思い至ること。
これだけ物質的には満ち足りている日本で、感謝の心もこれっぽっちも持てずに、自分の我欲を優先させて権利だけを声高に主張するような人間がいるとしたら、それは野蛮人だ。