Dear-Abbadoのブログ

折々の雑感を綴っていきます。

街中で諸仏諸神にまみえて、思うこと

先日の夜のこと、ジムからの帰り道を歩いていると、駐車したワゴンから若い夫婦が降りてくるのが見えた。二人はすぐ近くの社の前に並んで立ち、深々と二拝二拍手一拝。

そのお社は、日蓮宗のとある寺院の境内に祀られている¨子育稲成尊天¨。おそらく二人は、まだ幼い子供の育児がうまくいくよう、あるいは、無事に子が授かるよう、祈願していったのだと思う。はたから見ても、まっすぐな信心が伝わってくる熱心な参拝姿だった。夜中にわざわざ車で出かけてきたということは、その夫婦は他の寺社もハシゴして願をかけて回っているのかも知れない。

この夫婦を見て僕は、昨年台北へ行った際、あちこちの寺社で人々が一心不乱に神仏に祈る姿を目にしたことを思い出した。

医術の神を祀った大龍峒保安宮では、ダウン症の子供達を引き連れて祈願に来た人達や、供物を捧げ拝殿で祈り続ける人達を大勢見た。龍山寺でも、地元のおばあちゃん達が小さい椅子を持ち出して本堂をぐるりと取り囲み、観音経とおぼしき経典を読誦する光景を目にした。

今年訪れた香港でも、ごく普通のマンションのエレベーター脇や出入口の床上などに小さな赤い祠があって、線香が立てられ、建物を守る神(?)が供養されているのを見た。レストランからボーイが出てきて突然店の前にしゃがみこみ、何を始めるのかと思ったら、壁際に設けられた小さな祠に手を合わる、などという光景にも出くわした。

ガイドブックにもよく書いてあるし実際に自分の目でも確かめてきたが、台湾や香港では普通の人達が普通に信心深い。何かあったら、いや、何もなくても仏や神に手を合わせるのが当たり前、という雰囲気がある。

日本でも、例えば京都の街中を行くと、あちらこちらに小さな社や祠があって、新鮮な水や果物、菓子が捧げられているのを見ることができる。京都に行く楽しみは、街のそこここに神仏がおわして、そうした神仏をちゃんと供養している人々の営みもあることを見ることにある。東京でも、ビルの屋上に稲荷社が建てられていたり、普通のお宅の庭一角に鳥居があってお社が整えられているのを見たりする。

一方で、京都で有名な寺社へ行っても、人混みに疲れるだけで、参道の土産物屋や茶屋を物色することが実は目的になっていたりして、それはそれで旅の味わいの一つではあろうが、そもそも寺や神社は人間が神仏に向き合う場であり、祈りを捧げる場であることを考えると、半ばレジャーランド化している有名寺社というのは、行くだけ残念な気持ちになるところもないではない。

仏教や神道道教に限らず、信仰は日々の中にあるもので、生きている間ずっと続くもの。もちろん、死んでからも神仏にはお世話になるのだ。神や仏はカップラーメンではないから、拝めばすぐご利益があるわけではないし、なければないで気休め扱いにするというのもまたよろしくない。

一生、神にも仏にも祈ることなく、関心も持たず、自分の力だけで生ききることができる人がいれば、それは本当に幸せな人だ。そういう人をこそ神仏は讃えるのかも知れない。けれど、残念ながら僕はそうしたタイプではなく、諸々の行いの結果、来世はどうなるか分かったもんじゃない人間。少なくとも、そこはかとないそんな恐れが心の中にあることだけははっきり言える。