Dear-Abbadoのブログ

折々の雑感を綴っていきます。

釈尊の教えに遇えた喜び

どういう訳か分からないけど、近頃、仏教の聖典に親しむようになった。

岩波文庫の「スッタニパータ」を読み終え、いまは「真理のことば・感興のことば」を読んでいる。書店に入れば法華経を立ち読みし、家では「真言陀羅尼」(坂内龍雄 著)を紐解く、といった有り様。そのうち「大パリニッバーナ経」も読む予定だ。

浄土三部経法華経などの大乗経典は、ゴータマブッダの滅後100年近く経過してから編纂された¨非仏説¨だという話をよく聞く。

さらに、釈尊はあの世や来世、霊魂については否定したと一般的には言われている。しかし「スッタニパータ」や「真理のことば(ダンマパダ)」「感興のことば(ウダーナヴァルガ)」をよく読むと、来世については釈尊がその存在をはっきり認めていたことが分かる。

例えば、最古の仏教聖典である「スッタニパータ」には、 ¨この世に還り来る縁となる(煩悩から生ずるもの)をいささかももたない修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。‐蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである¨(15詩・岩波文庫)と書かれている。¨かの世¨というのはもちろん¨次の生¨という意味だ。

また、「感興のことば」にはこうある。¨それ故に、来世のために功徳を積め。功徳は実にあの世における人々のよりどころであるからである¨(第5章
22詩・岩波文庫)。¨神々は功徳をほめたたえる。正しい行ないをなす人は、この世で非難されることがなく、また死後にあっては天に楽しむ¨(同23詩)。

¨大乗非仏説¨について私見を述べれば、これまた「スッタニパータ」にその答えが見いだせる。例えば、¨あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起こすべし¨(149詩)。これが大乗仏教の根本精神でなくて何であろうか。

釈尊はまた、こんなことも語っている。¨過去にさとりを開いた仏たち、また未来にさとりを開く仏たち、また多くの人々の憂いを除く現在の世の仏、‐正しい教えの師であるこれらすべての人々は、過去に住したし、現在住し、また未来に住するであろう。これが諸仏のあいだの決りである¨(感興のことば 第21章11‐12詩)。

「スッタニパータ」でさえも釈尊滅後にまとめられた詩集であることを理解した上で、なおかつその中に釈尊が説いたダルマが間違いなく生きていると考えると、大乗仏教そして大乗経典は、釈尊の教えを核として展開された一種の文学でありながらも、諸々のブッダの教えをも内包した、まごうかたなき仏説なのだ。

「スッタニパータ」は素晴らしい書物である。そして、「真理のことば」と「感興のことば」もこの上なく優れた書物である。釈尊の教えに遇えたことを素直に喜びたい。

最後に以下を引用する。

¨すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、‐これが諸の仏の教えである¨(真理のことば 第14章183詩・岩波文庫)。