Dear-Abbadoのブログ

折々の雑感を綴っていきます。

ただ一向に念仏

僕は、家にいるときはもちろんのこと、歩いているとき、通勤電車を待つホームや会社のエレベーターの中にいるとき、トイレの中、ジムで湯船につかっているときなど、普段から、隙あらばいつでもどこでも¨南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏¨と念仏している。もう本当に、念仏が癖になっている。ただ、公共の場で大声でやると気がふれた人と思われてしまうので、人があまりいないときに、自分にだけ聞こえるくらいの小声で念仏している。

旅行しても、行った先々で絶えず念仏する。帰省しても念仏。まず仏前で。そして墓参りして、念仏。犬を散歩に連れていくときも、ただひたすら念仏だ。絶えず¨南無阿弥陀仏¨と称える僕に、犬は神妙な顔つきを見せるときもあるし、まったく意に介さないときもある。犬はやはり犬だ。でも、そんな彼らの顔をじっとのぞき込みながら、僕はじっくりと念仏を聞かせてやる。「犬の耳に念仏」だが、何か計り知れない大きな力が働いて、彼らの輪廻転生に良い影響を与えるかも知れないと思いながら。

ところで、口で念仏できない人は¨南無阿弥陀仏¨と書いた紙を目にすることができれば、阿弥陀仏と結縁できるという。では、口で称えることはおろか目にすることもできない人、つまり聾唖者であり盲人である人は、阿弥陀仏の救いから漏れてしまうのか?その場合は、¨南無阿弥陀仏¨と書いた紙に触れることができればよいそうだ。

阿弥陀仏と結ばれる機縁は、このようにいくらでもある。ただ、阿弥陀仏と縁のない人はまったく縁のないまま一生を過ごす。そういう人には他の神、仏や菩薩、聖典との出会いがあるだろうし、自分の心にしっくりくる/こないというのもあるだろうから、良いとか悪いとかいう話ではない。

僕は、実家の宗派がたまたま浄土宗で、親も兄弟もまったく念仏なんて称えてなかったけれども、自然にひとりでに念仏するようになった。「選択本願念仏集」はもちろん読んだし、「歎異抄」も、現代語訳だけれど「浄土三部経」も読んだ。そして、法然上人も親鸞聖人もどちらも敬っているし、好きだ。

あまり知られていないけれど、念仏には現世利益をもたらす力がある。災厄を祓う力もある。でも、そういうのは些末な事柄であって、まずは一声でも多く念仏することが大事だ。

法然上人が「一枚起請文」で述べられた通り、¨念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じうして、智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし¨ である。

まさに、¨ただ一向に念仏¨するうちに、すべてが心身に備わってくる。