Dear-Abbadoのブログ

折々の雑感を綴っていきます。

試論―″思う″と″考える″について

外山滋比古さんの″思考の整理学″を読み始め、色々と考えさせられている。ショーペンハウアーは「読書とは、他人の考えを自分の頭の中で展開させることだ」「本ばかり読む人間は自分の力で考える力を失っていく」という意味のことを書き残したが、読んであれこれと考えさせられる点において、″思考の整理学″は良書と言える。

さて、この本のタイトルにもある″思考″という日本語。これは、″思う″と″考える″とが組み合わさって成立しているが、ふつう一般的には、″考える″ことを指す言葉として使われている。例えば、″思考力″と言うとき、″思う力″ではなく、″考える力″を指し示す。

しかし、本来はそれぞれ別の働きを指し示すはずの″思う″と″考える″とが、″考える″を意味する″思考″という一つの言葉を成り立たせている。このことから推測されるのは、少なくとも日本語の表現においては、″思う″と″考える″とが分かちがたい、または混沌とした関係にあるのではないかということだ。

″思う″は、例えば「今回の選挙結果についてこう思う」という風に使われる。これを「今回の選挙結果についてこう考える」という風に″考える″を使って言い替えてみる。両者の言わんとするところが少し違うのが分かるのではないだろうか。

「こう思う」とき、人は、即座に脳裏に展開したことや感じたことを″思う″という言葉で表している。言ってみれば、有無を言わさず向こうから自分の意識へやって来たもの、それ自体が自発的に生まれるようなものを差している。一方で「こう考える」とき、人は、対象となる素材を頭の中に入れ、素材と素材とを結び付けたり、離してみたり、そうした結び付きや引き離しから、これまでになかった結び付きを生み出したりする。平たく言えば、ロジックを生み出す働きが、″考える″だ。

話を元に戻して、なぜ″思考″(″思う″+″考える″)という言葉が成立するかを考えてみたい。

人がものを考えるとき、そこには何か必ず引き金となることがあるはずだが、それに触れたときまず無意識のうちに″思考の原型″が形成される。″思考の原型″は、″印象″と言い替えてもいいかもしれない。

それは、たしかに意識のうちにあるものの、言語化することはなかなか難しいものだろう。言葉で表現できたとしても、言葉にした途端に色褪せてしまうようなもの。感覚と知覚が混ざり合ったような、意識に痕跡を残すあるもの。これをなんとか言語化しているとき、我々は″思って″いるのではないだろうか。

″考える″ためには、この、つかみどころのない模糊とした意識内容をいったん言語化してつかまえるプロセス、″思う″が必要になるのだ。″考える″ために我々は、悲しいかな、言葉を必要とするから。だから、″思考″という言葉が成り立つのだし、成り立つどころか、″考える″ためには必ず″思う″プロセスが要るのだ。

しかし、実は″思って″いるときにこそ、我々の意識のうちにはとても豊かな内容がある気がする。例え、あることをどんなに言葉巧みに表現できたとしても、それは豊かな内容の写し物でしかないのではないか。

一方で、人間は考える力を手にすることができて、幸せかもしれない。言葉を使って写し物をこしらえなければ、良きものであれ、悪しきものであれ、我々はそれに圧倒されてしまってすごく苦しいだろうから。対象が何であれ、言葉を使って思考することで、人間はその対象を自分から引き離すことができる。渦中から抜け出すことができるのだ。