Dear-Abbadoのブログ

折々の雑感を綴っていきます。

悪果を甘受することも大事

因果の理を説く言葉に「善因善果、悪因悪果」というのがある。字面の通り、良い原因が良い結果を招き、悪い原因は悪い結果をもたらす、という意味だ。仏教では輪廻転生を説くが、この輪廻こそ因果律に支配された最たるものだろう。

せっかく人間界に生まれてきたにもかかわらず、悪業の限りを尽くして、次の生で地獄に生まれる者もいれば、並みの人間より遥かに慈愛に富んだ心を持って仲間を助け、人間界にデビューする元動物もいるかも知れない。人間時代の修行が実って、めでたく菩薩として浄土に誕生する人もきっといる。

いま受けている生が、自ら過去に成した諸々の行為の結果であるとしたら、例えばいま現在苦難に喘ぐ人達も、過去の行いの報いを受けているからこそ苦しんでいる、と解釈せざるを得ない。

病気や貧困で苦しむ人達を助けたいと思うのは、人間として当たり前の感覚だろう。困っている人を見て見ぬふりをすればやはり心が痛むし、他人の苦しみを我がことのように感じて自分も辛くなるのが、普通の人間だ。だから、苦難に喘ぐ人達に労りの言葉をかけたり、金銭的に援助したり、その人のために色々と働いたりしたくなる。

しかし、僕が思うには、苦しむ人達を助けることは自分の善因になりこそすれ、場合によっては相手のためにはならないのでないかということ。つまり、悪因悪果で苦しむのは自らの悪業解消のためであり、そこに下手に助けの手を差し伸べるのは、その人が苦難を自ら受けるべきを邪魔することになりはしないか。これはちょっと難しい問題だ。因果の理は凡夫にははかり知れないところがあるから、上に書いた僕の考えはちゃんちゃらおかしい話かも知れない。

しかし、さらに、こうも思う。仮に、現在の苦しみの遠因が過去生にあったとして、過去生でどう自分が生きたかをいまさら知ってもあまり意味はないだろうと。

以前、某スピリチュアリストが出てきて、ゲストの前世云々をネタに展開するテレビ番組があったが、前世を本当に知ることができたとしても、知って何をどうしたらよいというのだろう。それ知って一喜一憂し、新たな悩みを招くようであれば、今生で受けるべき悪果はつつしんで受け、悪因を清算し、いまここから少しずつ善因を積む方が賢い。そう思う。