年末から年始にかけて、吉田秀和の「音楽の光と翳」と「マーラー」を読んだ。
吉田秀和の文章は、滋味深いというか、誠実な文の運びに独特のリズムがあって、すっと頭に入ってこない箇所がときにあっても、隅から隅までじっくり読んで味わい尽くしてしまいたくなるような、硬派な魅力に富んでいる文章だと思う。
聴くだけでなく、音楽の評論を読む楽しみを教えてくれたのは、まず宇野功芳だったが、宇野氏とは違う個性を持った吉田秀和の著作を読むのも僕は好きだ。ディスクユニオンや街中の古本屋で吉田秀和の本を見つけると、ほとんど必ずと言っていいほど買って帰る。あと他に、僕好みの音楽評論を書くのは、黒田恭一くらいかな。
さて、吉田秀和の「マーラー」。マーラーは僕も昔から少しずつ聴いてはいた。しかし、交響曲でまったく聴いたことがないのが二つあって、一つは8番、もう一つは未完の作となった10番。「マーラー」を読んでいるうち、マーラーの交響曲をあらためてしっかり聴きたくなって、ディスクユニオンで未聴の8番(シャイーとRCO)と10番(ハーディングとVPO)に加えて、2番(ショルティとCSO)と5番(インバルとFRS)も買ってきた。
千人の交響曲はとにかく長い。土日の時間があるときに、腹をくくって正座でもして聴かなければいけない気がして、いまだに未聴だ。そして10番も。インバルの5番は聴いてみた。これは、情念の渦のようなバーンスタイン盤に慣れた耳には新鮮な演奏だけれども、マーラーの頭の中にあった音としては、いったいどちらが近いのだろうという疑問も感じざるを得ない。
ショルティは、ことマーラー演奏に関しては評判が良いようだ。ショルティは現役の頃はデッカ(ロンドン)への多数のレコーディングによって広く聴かれたと思うのだが、宇野功芳や中野雄などのアンチの影響もあったのか、CD売り場でもあまり見かけなくなったし、音楽評論の世界でもいまだまともに取り上げられることがない。
僕もショルティのディスクはあまり持っていない。ドボルザークの新世界をCSOとショルティの演奏で聴いたときは¨これはダメだ¨と思った。弱音から最強音へ至るときの暴力的な表出によって、ドボルザークがまったく死んでしまっていると感じた。
ただ、ショルティは間違いなく一時代を築いた大指揮者だろう。文春新書の「クラシックCDの名盤」を読んでかなり不満だったのは、ライナー、オーマンディ、ショルティ、ドホナーニ達が取り上げられていなかったことだ。どう考えても、スクロヴァチェフスキ、ノリントン、ジンマンについて書かれていてショルティ達が無視されているのはおかしい。もっと言えば、コンヴィチュニー、ブリュッヘン、プレヴィン、マリナーなどについても書かれてしかるべきだと思った。
この本は面白いのだけれども、偏り方において決定的な欠陥を抱えており、また、演奏そのものについてではなく演奏家のゴシップやエピソードの記述に終始している中野雄の姿勢(というより資質?)にもはなはだ疑問符が付く書籍だ。
とかなんとか言いつつ、ショルティの復活を聴いてみた。聴いてみたが、これはもう本当にショルティ節全開で、うーんと唸ってしまう他ない。クレンペラー盤と比べるのはどうかとも思うが、ショルティのは、香りや雰囲気がないというか、有無を言わせぬ音の塊でどこまでも突進して行く。どうやら、聴き直すのには体力が要りそうだ。
マーラーの話からショルティの話に飛んでしまったが、ギーレンやアバド、小澤、バレンボイム、ムーティ達の演奏もどんどん聴いていきたい。もちろんブーレーズも外せない。