Dear-Abbadoのブログ

折々の雑感を綴っていきます。

音楽の「深み」とは何だろう(2)

ただし、音楽はある面からみれば「ただの音響」である。ここが難しいところだ。誰が演奏した音楽であろうと、鳴っている音、いままさに耳に届いているそれは音響に過ぎない。そして、音は、ある周波数を持った空気の振動が鼓膜に達し、脳がそれを感知したものに過ぎない。だから、音楽に深みを感じるか否かは、つまるところ、受け手の耳次第であり、その人の感受性に大きく左右されると言うことができる。

もしかしたら、ロボットが演奏したピアノソナタを聴いて心を奪われ、感涙にむせぶ人もいるかも知れない。また逆に、フルトヴェングラーが残した演奏を聴いて何の感興も覚えない人がいる可能性だってもちろんあるのだ。

音楽の「深み」について語られるとき、必ずといっていいほど登場してくるのが「精神性」という言葉だけれど、これも人によってはかなり都合よく使われることがあって、胡散臭い言葉ではある。例えば、「カラヤンベートーヴェンはスマートだけれど精神性に乏しい。フルトヴェングラーベートーヴェンは音の背後にドラマがあり、精神性が高いのだ」などという科白によくお目にかかるけれど、いったい精神性とは何だろうか?

そもそも、音楽を演奏した主体が人間である限り、そこにはどんな種類のものであれ精神が介在しないということはあり得ない。カラヤンベートーヴェンは、カラヤンという人間がベートーヴェンのスコアを読み、表現意図をオーケストラに伝え、オーケストラを統率してはじめて音として生み出されるものであって、そこには当然オーケストラの団員も参画しているわけで、これ以上は考えられないほどの精神活動の結晶であるとも言えるのだ。

だから、仮にカラヤンベートーヴェンがスマートかつ美麗であるとするならば、そういう演奏を可能としたカラヤンの精神が凝集されているという点において、カラヤンベートーヴェンは高度に精神的であり、精神性が高いと言えるのではないだろうか。

例えば、ベートーヴェン自身が、フルトヴェングラーの演奏とカラヤンの演奏とを聴いたとしたら、どちらを評価するだろうか。これは難しい問題だと思う。

古楽器演奏が盛んになりスコアの研究が進むにつれて、フルトヴェングラーワルター達の演奏よりも、ブリュッヘンインマゼールノリントンらによるピリオド・アプローチこそが実はベートーヴェンの意図したものに近い、というか、フルトヴェングラー達の演奏は、誤りとは言えないまでも実はかなり特異なものだということが明らかになってきつつある。

ベートーヴェンは作曲家でありながら聴力を失うなど苦悩の人という印象が強く、そのドラマティックな人生を踏まえて、ベートーヴェン演奏にもそうした趣向を持ち込もうとする傾向が支配的だった時代があった。そうした時代精神を濃厚に継承した一人がフルトヴェングラーだったのだろう。

一つだけ確実に言えるのは、カラヤンフルトヴェングラーと、どちらがベートーヴェン演奏として正しいかなどということは言えないし、それを論じることにもあまり意味はないということだ。