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Dear-Abbadoのブログ

折々の雑感を綴っていきます。

宇野功芳氏を悼む

音楽評論家・指揮者の宇野功芳氏が亡くなったというニュースを聞いてびっくりした。6月10日に老衰で亡くなられたらしい。享年86。僕は中学生のときにクラシックを聴き始め、宇野さんが書かれた「名演奏のクラシック」からは強烈な影響を受けた。曰く「切れば血の出るような響き」や「阿修羅のような轟き」、「谷間にひっそりと咲く一輪の白百合のよう」「熟成された年代物の赤ワインのよう」といった氏独特の評言を読んでは心躍らせ、これから数々の名盤との出会いが待っているのだと思っては胸をときめかせていた。宇野さんに心酔するあまり、筆致をそっくりまねた音楽寸評を書いたりもしていた。でも、宇野さんが激賞するシューリヒトの指揮でブルックナーの7番(デンマーク国立放送響、1954年録音)を初めて聴いたとき、違和感を覚えるとともに少し不安になった。録音が古過ぎるし、オケも下手。少しも名演に聴こえなかったからだ。ライナーノーツはお約束のように宇野さんが書かれていて、なんか違うんだよなぁと感じつつも「でも、これは歴史的な名演なんだ」と自分を納得させながらがんばって聴き通した記憶がある。その頃は自分の感性が未熟なだけだと思っていた。カラヤンアバドは浅薄で、シューリヒトやフルトヴェングラーが紡ぎ出す音楽こそ魂の響き。そんな風に聴くことができない自分の耳の方がおかしいと思っていた。バレンボイムやドホナーニ、小澤征爾ハイティンクポリーニなどのディスクをいまだにほとんど持っていないのも、宇野さんが彼らを酷評していた影響による。しかし、宇野さんが下す評価がすべてじゃない(当たり前だけれど)とだんだん分かるようになった。ハイティンクも悪くないし、ドホナーニだってキレがあって良い。宇野さんの評論に限らず、世間の評判に惑わされず、まっさらな耳、自分の耳で音楽に触れることが大切なのだと学んだ。そして、カラヤンの音楽は美麗なだけで精神的な深みに乏しい云々という、分かったような分からないような¨精神主義¨を宇野さんが振りかざすことに少し辟易もした。ただ、音楽評論を読むことがこんなにも楽しいと気づかされたことは大きかった。また、宇野さんが推薦してくれたために数多くの名演奏と出会うことができたことに、深く感謝している。ブリュッヘン/18世紀オケによるベートーヴェンの1番(84年録音)、トン・コープマンアムステルダムバロックオケのモーツァルト40番(96年録音)、ボールト/ロンドンフィルによるマーラー1番(58年録音)、コルトーが弾いたショパンのワルツ&バラード集(33、34年録音)、ムラヴィンスキーチャイコフスキー5番(82年録音)、アバドアルゲリッチによるラヴェルのピアノ協奏曲ト長調(84、87年録音)、マタチッチ/チェコフィルブルックナー7番(67年録音)、シューリヒト/パリ音楽院管のベートーヴェン6番(57年録音)などなど。すべて僕の宝です。宇野さんは「名曲とともに」の中でこう言っている。『電車にさえ個性があるのだ。ましてや人間がこの世に生を享けて、可も無く、不可も無くの安全運転で一生を送るのは、あまりにも淋しいではないか。(中略)自分の定められた運命に従って、自然に動き、なおかつ、それが他の人とはっきり違うのが個性というものなのだ』。また「モーツァルトブルックナー」の中では、『ぼくは批評家がいくつも防壁を立て、どこから突っつかれても平気なように武装しながらものを書くのが嫌いなのだ』と語っている。宇野さんはいつも自分の感性に正直だったのだ。こんな熱い魂を持った評論家がいなくなってしまい、本当に寂しい限りだ。宇野さん、長い間ありがとうございました。ご冥福をお祈りしています。