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Dear-Abbadoのブログ

折々の雑感を綴っていきます。

「南無阿弥陀佛」と称えること

先月末に旅した富山で驚かされたのは、お寺や墓地にある墓石のほとんどすべてに「南無阿弥陀佛」と刻印されていたことだ。「倶会一処」と刻まれた墓石もいくつか目にした。北陸三県は真宗王国だと聞かされていたが、実際に目の当たりにして、なんだか感嘆してしまった。墓所だけでなく、街中でも「南無阿弥陀佛」の石碑を見かけた。茨城県にある僕の実家の宗派は浄土宗で、僕自身も念仏の徒を自認しているので、同じ浄土系に属する宗教風土を持つ富山にはシンパシーを感じるところがあった。さて、そもそも「南無阿弥陀佛」とは何かというと、阿弥陀(アミターバ)という仏様(ブッダ)に南無しますという宣言なわけだ。「南無」は、信頼するとか委ねるとかいう意味の「ナマース」を漢字で音写したものだから、南無阿弥陀佛と称えれば、意味としては「アミターバさん、あなたのことを信頼していますよ。私をあなたに委ねますよ」ということになる。ここからは知人から聞いたことだが、「アミターバ」というのは、否定の接頭辞「ア」と、有限の光とか有限の生命とかいった意味を持つ「ミターバ」がセットになった言葉らしい。だから、アミターバというのは「限りない光」「無限の命」 を意味する。南無阿弥陀佛と称える念仏は「無限の命を持つ仏よ、限りない光を放つ仏よ、私はあなたにすべてを委ねます」という告白になるのだ。浄土宗を開かれた法然上人は、生きている間はできるだけ多く念仏を称えよと説かれた。なるべく心を鎮めて念仏するのが良いが、心が乱れてしまうときには乱れたままで構わないから念仏せよとも言われた。しかし、ひたすら、南無阿弥陀佛南無阿弥陀佛南無阿弥陀佛・・・と繰り返していると分かるが、念仏するうちに心は自然と鎮まってくる。ジョギングを続けているとジョギングという行為に打ち込むこと以外は心から消え出ていってしまうのと同じように、念仏は延々と称えることにこそ、一つの大きな意味がある。念仏するうちに自分という小さな存在を鎮めていき、アミターバという無限の存在にすべてを委譲しますというシグナルを発するのが念仏なのだ。だから正直に言って、人間というものにそもそも大きな価値をおいてはいない。人間の価値よりもっと大きな宇宙のエネルギーみたいなものに我々の存在を預けちゃいましょうという信仰スタイルなわけだ。