Dear-Abbadoのブログ

折々の雑感を綴っていきます。

不完全ゆえの美

左右学という学問があるらしい。某週刊誌の巻頭特集で紹介されていて初めて知った。それによると、左右対称(シントリー)が美しいとされる西洋の文化圏では庭園や宮殿などはシンメトリーを基本に構築されるが、東洋では庭や伽藍など左右非対称(アシンメトリー)に造られることが多いという。竜安寺枯山水の庭などはその最たる例で、確かに京都の庭でシンメトリーに作庭されているものは私も見た記憶がない。ただ、詳しくは知らないが、タージ・マハルなんかはまったくシンメトリーな造りに見えるから、東洋でアシンメトリーが優位といっても、極東アジアでの話かも知れない。ところで、庭に限って考えてみると、(ピーター・グリーナウェイの映画に出てくるような)シンメトリーな西洋庭園も美しいことは美しいが、何か足りないように感じる。流れが感じられないというか、ある種の気配がないというか。私は京都では地蔵院の庭が特に好きなのだけれど、あの庭から受ける気の流れのようなものが西洋の庭には無いように思う。各地から最良の素材を集めてきて、ソリッドな設計思想のもとに造成された庭は、整然としているけれども、完成されきっていて、隙がなくてどこか息苦しい。逆に日本の伝統的な庭園は、整えられていながらも自然を自然のまま生かした要素が見られるし、樹木や岩のアシンメトリーな配置がわずかな綻びのようなものを感じさせて、目には見えない動的感覚をも生じさせる。日光の東照宮には柱が一つだけわざと逆さまに立てられている箇所があるらしい。すべて上下が揃ってしまうと完成すなわち満ち足りた状態となって、あとは欠けていく、つまり終焉に向かうしかないことになるのを象徴的に回避しているのだそうだ。頂点に達したもの、完全になったものは、その瞬間から崩れていく他はない。そういう象徴的な意味合いをこめているかは分からないけれど、東洋人が庭作りをアシンメトリーにするのには、左右非対称つまり不完全なものにこそ生命が宿るのをとらえ、そこにこそ美を見出だすからだと思う。日本人が曖昧な物言いを好んだり、白黒はっきりさせるのを必ずしもよしとしなかったりするのも、これと関係があるんだろうか。偶数と奇数どちらを好むかとか、色々考えていくと面白い。