Dear-Abbadoのブログ

折々の雑感を綴っていきます。

ダッカへの旅 (1)

5月3日~9日までの休暇を利用して、バングラデシュの首都ダッカへ旅行してきた。15年以上ぶりの海外、そして初めての海外一人旅ということで、あり過ぎるくらいに色々なことがあったが、陰に陽に、自分の人生にインパクトを与えてくれることになりそうな素晴らしい旅となった。その旅行記を何回かに分けて記しておきたい。

5月4日(木)の早朝。経由地であるマレーシアはクアラルンプール国際空港(KLIA)に到着した。天気は雨。KLIAの空気はなんだかスパイシーな匂いがする。トランジット時間が長いので、クアラルンプールでしばらく時間をつぶすことになった。思った以上に近代的で清潔な空港内をうろうろ。時計がすべてOMEGAなのにも驚く。モノレールに乗って入国審査カウンターへ。

入国後、KLIA ekspres(expressではない!)でセントラル駅へ行き、そこからモノレールに乗ってChow Kitという駅で下車した。駅から少し歩くと市場があったのでのぞいてみたが、猛烈に臭い。あらゆる生魚が至るところに陳列され、すさまじい臭いを放っているのだ。生きたナマズ、泥まみれの赤身のタニシのような貝などなど。青果売り場で小さな青林檎を一つ買って食べた。市場のすぐ近くには煤けた古いマンションが建っていて、おどろおどろしい雰囲気を醸し出していた。

クアラルンプールは、ほとんど東京と変わらない大都会である。駅員からコンビニの店員、街中のおじさんに至るまで、多くの人が英語を解するのにも驚かされたが、中華系、インド系、マレー系、その他、色々な肌色・顔つき・服装の人々が行き交い、人種構成が多様なことにも感心させられた。KLIAセントラル駅の構内なんて、まさに人種のるつぼである。

蒸し暑さとフライトの疲れもあって、カフェで一休みをした。コーヒーはあまり美味しくない。夕方近くになって突然、どしゃ降りの雨に。セブンイレブンで傘を買ったが、傘を差している人はあまり見かけなかった。マレーシアは英国連邦の一国だが、これも英国の影響なのだろうか。

そうこうするうちに、ダッカへのフライト時間が迫り、再びKLIAへ舞い戻った。

ブログ開設から1年が経ち

2016年4月にまったくの思いつきから始めた当ブログ、めでたく開設1年を迎えることができた。

当初はがんばって毎日1本ずつ記事を書いていたが、だんだん間が空くようになり、ネタに事欠くようになり(笑)、いまでは月に2本ほどの記事をアップするくらいである。

PVもほとんどないし、半ば日記かつ自省録みたいなブログだから、これからも気が向いたとき、思いついたときに、風に流されながら、しこしこ書き綴っていこうと思っている。

世の中すごいもので、毎日数本の記事(しかもそれなりに読みごたえのあるもの)を書き続けているような人がいる。プロの作家なんかは毎日複数の〆切に追われるなんて当たり前だろうけれど、アマチュアとか匿名の世界でもすぐれた書き手はいっぱいいるのだ。

僕が毎日のようにアクセスし記事を読ませていただいているブログを、(勝手にリンクを貼らせていただいて申し訳ないのですが)すこし紹介したい。

クラシックCD聴き比べ ~ Classic CD Memos ~
http://karajan2.blog101.fc2.com/

ITスペシャリストが語る芸術
http://www.kaynotes.com/

吾唯知足
http://evdwdr.blog.jp/

いずれのブログもためになるし、常に新しい発見があるし、書き手が率直で、読んでいてとても面白い。

先輩方を模範に、次はブログ開設2周年を目指して僕も精進します。

アバドの¨太鼓連打¨

アバドがヨーロッパ室内管弦楽団を振ったハイドン交響曲103番¨太鼓連打¨、これは本当に良いディスクだ。録音は¨95年3月・フェラーラ¨とあるから、アバドがまだ元気だった頃の録音になると思う。

一楽章の冒頭、ティンパニがスカッと鳴り渡る。マイクがその音をよくとらえていて、こんなに決まったドラムロールは聴いたことがないくらい。その轟きの後を引き継ぐチェロ、コントラバスファゴット、そしたまたその後を継ぐフルートの美しさ、弦のしなやかな鳴りも素晴らしい。ティンパニが随所でしっかり鳴って、自己主張している点も良い。

ヨーロッパ室内管弦楽団は小編成のオーケストラだが、響きが厚くない半面、密で、アバドの棒によくついて弾み、よくしなる。若く瑞々しい音楽が、自ら身を乗り出して駆け出していく感じ。まるで、もぎたての果物から甘酸っぱい香りが発散するのような、鮮度の高さがある。

また、録音の良さも演奏の美点をよく伝えている。残響は適度、各楽器の分離もよく、音域のバランスがよいので耳が疲れない。

¨太鼓連打¨は、カラヤンベルリンフィル(81-82年)とビーチャム/ロイヤルフィルを聴いたことがあった。しかし、アバドの演奏に出会って僕は初めてこの曲に開眼したと言ってもいい。とにかくフルオーケストラの演奏からは聴こえてこない音が飛び出してきて、ハイドンはこうでなくっちゃ、と感心してしまう。

古楽器オケでもピリオドアプローチでなくても、こんなにフレッシュなハイドンを聴かせることができるのだから、やはり指揮者、奏者の力量次第なのだ。アバドの素晴らしさを証すディスクは数多いので、これからも当ブログで紹介していきたいが、この演奏は間違いなくその上位に属するものと言える。

嫌なことが起こったら

何か嫌なことが起こったとき、皆さんはどうしているだろうか。

仕事で重大なミスをした。恋人に振られた。飼い猫が病気になった。洗濯物を外に干して出かけたら大雨が降ってきた。スパムメールが大量に送られてきた。風邪をひいたせいで楽しみにしていたコンサートへ行けなくなった。御神籤を引いたら大凶だった。気持ちよく散歩していたら鳥に糞をかけられた。整形手術が失敗して福笑いみたいな顔になった。セルフィーに心霊が写り込んでいた・・・などなど。面白くないことって、誰にでも起こるものだ。

嫌なことというのは、起こるときにはわりと連鎖して起こる。なぜか?それは、嫌なことに意識を奪われるからだろう。

例えば、ある朝起きてみると、いつもの起床時間をとっくに過ぎていた。急いで家を出ると、スマホをいじりながら歩いてきた学生と出会い頭ぶつかりそうに。ムカつきながらも駅へと走り電車に飛び込む。しかし途中で電車は停止。人身事故とのアナウンスが流れる。結局、大幅に遅刻して出勤することになった。

弱り目に祟り目なこんな状況に陥ったこと誰しもあると思うが、このケースで言うと、遅刻しそうだと焦る気持ちになっているところに、スマホ学生にムカついたことですべてが暗転してしまった。ムカつく気持ちそのものが、次から次へとムカつきたくなるような現実をもたらしたのだ。

人間の脳はなぜか、嫌なことばかり何度も思い出してしまう癖を持っている。楽しかったこと、気持ち良かったこと、嬉しかったことよりも、ついつい不快な出来事を脳内リピートしてしまい、腸が煮えくりかえるような気分になること、あなたも経験ないだろうか?

一日24時間、一年365日に起こっていくことを、嬉しいこと、不快なこと、どちらでもないこと、の3つに仕分けていく。すると、不快なことって実はそんなに多くは起きていないことが判明するはずだ。ノートにきちんと記録をつけていくと、そういう結果になると思う。脳の癖もあって、嫌な経験に強烈にフォーカスしてしまうから、あたかも自分は実際にツイていないかのように思い込んでしまうのだろう。

もちろん、長い人生、どうしようもなくツイてない時期というのはあるはず。僕もツイてない時期はこれまであったし、これからも、泣き面にスズメバチのような経験をする可能性も否定できない。

でも、どんなに不快な出来事が起こっても、事後処理を終えたらもうそのことについては思い巡らさないことだ。嫌なことは徹底的に心の中から追い出してしまうに限る。客観的にみて、その不快な現実をもたらした原因が自分にあるのなら、行動を矯正すればよいだけのことだ。

うーん、言うは易く行うは難い。。けれど、不快な気持ちというのは不快なものに意識を向けているからこそ起こるだし、それがまた新しい不快な出来事を引き寄せる。

どんな嫌な出来事でも、一度起こった後は時の流れに押し流されていく。起きてしまえばただの過去である。それがリピートされるのは、僕やあなたの頭の中だけでしかない。嫌なことも嬉しいことも、存在できるのは意識の中だけである。

だからこそ、できるだけ楽しいことや嬉しいこと、気持ちの良いことに意識をフォーカスした方が、少なくともましなんじゃないかと思う。

新小岩の活気

去年のゴールデンウィークに訪れた新小岩のクラシック専門中古レコード店へ、一年ぶりに出かけた。お店に向かう前に新小岩の駅前をぶらぶらした。

僕が住んでいるのは大田区の外れなのたが、大田区と葛飾区の街はやはり雰囲気が違う。新小岩に雰囲気が似ている大田区の街を強いて挙げれば蒲田になるだろうが、やはり両者、明らかに違う。

最近見たヤフーか何かの記事では、新小岩、小岩は「住みたくない街」の上位にランクインするという不名誉にあずかっていた。少し前は北千住なんかも治安が良くないなどと噂されていたが、最近は大学などが増えるに従って若者も増え、イメージも雰囲気もだいぶ変わったようだ。

東京はなぜか、北側にある板橋区練馬区、北区などのイメージがパッとせず、南側の港区、目黒区、世田谷区などに人気が集中している。少々強引だけれど、街単位でみても、上野→新宿→渋谷→六本木→二子玉川と、若者を引き寄せる力を持つ街は北から南へと変遷している。

東京スカイツリーができてしばらく経つし、沿線の開発も進んだと思うが、スカイツリー周辺も若者の活気満ちるエリアになるという想像はちょっとしにくい。そもそも東武鉄道の戦略がそういうベクトルには向いていないかも知れないが。

さて、新小岩。もしかしたら治安は良くないのかも知れないが、駅前商店街の雰囲気は僕はとても好きだ。一時期盛んに引っ越しをしていたし、もともと引っ越しが好きな質も手伝い、駅前にある不動産会社の物件情報を見るとこれが割りと安いので、新小岩でのんびり暮らすのも楽しそうだなどとつい考えてしまった。

中古レコード店では、店主の方に相変わらず親切にしていただき、お茶をいただきながら、ヨーゼフ・クリップスが振った¨ばらの騎士¨や、グリュミオーとアラウによるベートーヴェンのヴァイオリンソナタ5番、ケンペのアルプス交響曲などを拝聴。そして、バレンボイムがイギリス室内管と録音したジュピターとパリ、やはりバレンボイムによるモーツァルトピアノ曲集を買って出た。

少し危ない話‐方位(その1)

前回の記事でも触れた通り、ひと頃、方位を鑑ることにとても凝っていた。方位というのはつまり、高島暦などによく載っている¨五黄殺¨や¨暗剣殺¨などのよろしくないとされる方位を避け、¨良い方位¨へ出かけることで運気を上げようという、占い・迷信の一つとされるアレのことである。

占いやオカルトの類に眉をひそめる人にとっては、そういうものに真剣に取り組む人間は間違いなく「頭のおかしい奴」だ。しかし、ハマっている当の人間にとっては、そういう観念の世界をいったん自らつくり上げてしまうと、それが真理そのものになる。そして、身の回りに起こることすべてがその観念体系の中できれいに解釈できるような気になってきて、ますますハマることになる。僕が方位にとことん凝っていたときの内面は、まさにこれだった。

占いや迷信を宗教と比較すると、ファクトを抜きにして一つの物語を信じる(信じられる)ことで成り立つ点が共通している部分だろうと思う。宗教と占いが同じものかと言えばもちろん違う。ただ、普遍性のない非合理な思考がすんなり受容されるのが占いと宗教の世界だろうとは思う。

通常、いわゆる宗教というものには魂の救済が用意されている。一方、占いにそれがないのかと言えばこれはちょっと難しい。占い師の元へ足繁く通って悩みを打ち明け、あれこれと託宣をもらって心の安定を得ている人はかなりの数いるだろう。そういう意味では、占いだって魂の救済にいくばくかは役に立っているのだ...。僕はそこら辺についての専門家ではないので、これ以上の言及は避けることにしますが。

前置きが長くなったけれど、今回から数回に分けて、僕が方位に文字通りハマっていた頃のことについて書いていきたい。前置きで書き疲れてしまったので具体的な話はその2で書こうと思う。

やっと新年が始まった気がする

以前、東洋暦をいろいろと調べ、方位だのなんだのを鑑ていたことがあるせいで、グレゴリオ暦での1月1日から新年という感覚にはどうもなじめない。陰が極まる冬至が大晦日でその翌日から新年、あるいは節分が大晦日で立春から新年というのが、個人的にはしっくりくる。

毎月のスタートもグレゴリオ暦と東洋暦では違っていて、例えば2月であれば4日の立春が本来的には月の頭になる。3月なら啓蟄(3月5日ころ)が始まりだ。

気のせいかも知れないけれど、体調の変化を感じるのがちょうどこの東洋暦での節目前後なので、やはり東洋暦は自然の摂理に合っている気がする。というよりも、そもそも天体の運行に基づいて導き出したのが東洋暦なのだろうから、自然の摂理に合致しているのは当然か。

というわけで、明けましておめでとうございます。