Dear-Abbadoのブログ

折々の雑感を綴っていきます。

銭洗弁天へ初詣に出かける

7日土曜に鎌倉の銭洗弁天へ初詣に行った。今年初めての神社参拝、かつ銭洗弁天に参じたのも初めてで、二重の意味で初詣となった。國學院の大学院で神道学を修めた知り合いが、ここで正月に臨時で働いていると聞き、遊びがてら来たのだ。

鎌倉駅前は相変わらずの人人人でごった返していて、小町通りを人波をかき分けるようにして進み、夕闇迫る中を弁天様へと急いだ。当の神社は山の中腹というか崖を切り崩したような穴の奥にあり、沢山の参拝者でそこそこ活気があった。

本宮の主祭神市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)というらしいが、皆がお金を洗うために目指す奥宮に祀られているのは宇賀神と弁才天。知り合いに解説してもらったが、神社なのに境内に香炉があったりしてどことなく寺の雰囲気をも持ち合わせているのは、宇賀神と弁才天との神仏習合が背景にあるそうだ。どちらも神様だと思うが、弁天様が仏教ルーツの神様だから、神仏習合になっているようだ。

僕は念仏の徒だからお金を洗うのはやめておこうと思ったのだが、結局、せっかくだからと思い直して硬貨を数枚洗った。見ていると、紙幣を5~6枚盛大に銭洗いしている欲深な参拝者もいる。

御守りと同じで、こういうのは気休めが最大の効能であって、お金を洗うだけでお金が増えていくなんて、普通に考えればあり得る話ではない。日銀総裁に参拝に来てもらい日本の財政赤字が目に見えて縮小してくるようなことでもあれば、少しは信じたい気にもなるけれど。

17時を過ぎたころ社務所が閉じ出し、同時にその日のお賽銭が収集される作業が始まるのを目にしたが、金運のご利益に一番あずかっているのは当の銭洗弁天なのかも知れない、と失礼ながら思ってしまった。

インターネット検索ならGoogleSNSならFacebook、通販ならAmazon、コーヒーならSTARBUCKS(どれも米国企業だ・・・)、そして金運上昇祈願なら鎌倉の銭洗弁天。弁天様と営利目的の企業を一緒にするのは申し訳ないけれど、●●なら○○という仕組みを盤石にすることに成功した組織は強い。

ただ僕は生来のひねくれ者なので、蟷螂の斧よろしく、そういうマジョリティによる支配を突き崩すような小さな力に注目してみたいし、いまは小粒でも山椒の実のようにピリリと辛い存在に肩入れしたいと思ってしまう。

40分間あれば

昨年末、「バレンボイム音楽論」を読んだ。バレンボイムは13歳のときにスピノザの「エティカ」を読み、それ以来スピノザから大きな影響を受けているという。「バレンボイム音楽論」には、エティカから引用した記述があちこちにあるだけでなく、コンサートの合間にもエティカを読んでは思索を巡らせることがあるというくだりもあり、スピノザバレンボイムとの深いつながりを感じさせられる。

好きな音楽家が愛読する哲学書ということで、僕も読みたくなり、中公クラシックスから出ている「エティカ」を早速読み始めた。第一部「神について」を途中まで読み進めたばかりだか、なかなか難解だ。スピノザが説く神はいわゆる人格神ではない。スピノザにとって、神はその属性として延長を持つものであり、また自然は神のうちにある。そして、つまるところ、存在するものは神以外にないという。

今年はじっくりエティカを読もうと思う。

実家に帰省して、古い「レコード芸術」を引っ張り出していたら、ある号にバレンボイムのインタビューが載っていた。聞き手は、「バレンボイム音楽論」にも解説文を書いていた岡本稔氏。バレンボイムは世界中でコンサート(指揮とピアノ)をこなす傍ら、数々の録音をリリースしていて、現代のスター指揮者の中でも特に忙しい人種に入るそうだが、精力的な音楽活動について指摘されたバレンボイム氏、答えて曰く 、「私は普段こんなにインタビューを受けないものですから・・・。(インタビュー時間と同様)40分間あれば、シューマン交響曲を指揮することができる」。

そうか、40分あればシューマン交響曲を一曲振れる、そんな発想もあるのかと感心しつつも、多忙極まって、人生の切り売りみたいな生活を送っている(本人は楽しんでいる?)バレンボイムも実は大変なんじゃないかと同情してしまった。でも、いつの時代も、才能がある人はあちこちから声がかかる結果、必然的に忙しくなるもんです。

エティカを読みながら、バレンボイムを聴きながら、僕も、仕事も私生活においても精力的にこなしていこうと、年の始めにあたりぼんやりと考えた。

音の公害

僕は音に敏感なたちで、巷に溢れているあれこれの音に苦痛を覚えることがしばしばだ。

電車内だとアナウンスの音、くしゃみや咳払い、やたら大きな声でしゃべる人の声、携帯音楽プレイヤーの音漏れ。中でも車内アナウンスはかなり不快だ。やれ遅延のお詫びだの駆け込み乗車はやめろだの寒いのでお気をつけくださいだの、うるさいことおびただしい。乗客にはイヤホンで耳を塞いでいる人も多いからそういう人たちにもアナウンスが行き渡るようにということなのか、とにかく信じられないほど音が大きい。

アナウンスの音が小さければ小さいで、俺はそんな情報は知らされなかったとクレームをつける輩が出てくる可能性もあるからということで、あの異常にうるさい車内アナウンスは、鉄道会社なりのエクスキューズなのだろうか。

また、街中に騒音を垂れ流していく廃品回収業者たち。あれは犯罪者に等しい。なにしろ、自分たちの商売のために人様の静寂な環境を破壊してまわるのだ。本当に呆れ果てる。ゴミ集めは無関係な人間に迷惑をかけずにやるべきで、やり方自体がゴミではもうどうしようもない。

あらためて、「感謝する心」の大切さ

現代の日本のような社会に生まれて、生きていると、「感謝する心」というのはなかなか育ちにくいのだろう。自戒もこめて、ふとそんなことを思った。

当たり前のように住む家があり、食べさせてくれる人がいて、コミュニティもある。治安もいい。教育も施してもらえる。テレビはもちろん、パソコン、スマホタブレットまで手に入り、海外旅行にも気やすく行ける。年をとって年金暮らしになっても、高レベルな医療サービスを比較的安く受けることができる。

やはり、日本はとことん ¨ぬるま湯¨ 社会なんだろう。選挙の投票率がいつも低いことから分かるように、ろくに政治参加もしないくせに、何かと言うと国や政治のせいにしておきながら、一方では本格的な暴動やテロなんて誰も起こしはしないし(もちろん起きて欲しくはないが)、せいぜいがデモごっこで終わる。結局、そこまで切羽詰まっていないし、現状の居心地がいいのだ。

でも、豊かな社会がすでにあることにあぐらをかいて、それが未来永劫に続くかのように驕り、まだ足りない、こんなものが欲しいわけじゃない、と誰もがクレーマー化するようになってはお先真っ暗だ。

同じ「まだ足りない」でも、低成長が続けば将来は国民一人当たりのGDPが韓国の半分になってしまう、だから経済成長は続けなければ、という主張は分からないでもない。世界の現実を見た上でのまっとうな危機意識が、そこにはある気がするからだ。

さて、「感謝する心」である。「感謝する心」なんていうと堅苦しく聞こえるけれど、結局それは、物事のよってきたるところに思いを馳せて、その意味を考えるということに尽きるのではないか。

例えば、日本がいま豊かでいられるのは、戦後多くの国民が勤勉に働いた結果であり、経済的な豊かさを維持しようと今現在もあれこれ努めているからに他ならないことに気づくこと。文明の利器であるスマホタブレット端末も、エンジニア達の汗と涙の結果として開発され、いま我々がいじくれるようになっていることに、思い至ること。

これだけ物質的には満ち足りている日本で、感謝の心もこれっぽっちも持てずに、自分の我欲を優先させて権利だけを声高に主張するような人間がいるとしたら、それは野蛮人だ。

バレンボイム、素晴らしいじゃないか!

ずっと気になっていたboxセット、ダニエル・バレンボイムシュターツカペレ・ベルリンによるベートーヴェン交響曲全集を買った。

実はこの全集、Youtubeに音源がすべてアップされていたので事前に少し聴いてみたのだが、その素晴らしさにびっくり。渋谷のタワレコにいそいそと出かけ、ずっとためつすがめつしていたこのboxを買ってきたというわけだ。

1~9番まで全部聴いてみて、特に良いと思ったのはエロイカ、4番、9番というところ。もちろん他の交響曲も文句なし。特段変わった解釈は見られず、直球勝負な中にベートーヴェン交響曲の個性が最良な形で息を吹き込まれている。エロイカは、冒頭のあの二つの和音がずっしりかつ超燦然と鳴り響く。例えはおかしいけれど、まるで横綱の鮮やかな立合いを見るかのよう。9番は、滔々たる流れに身をゆだねるうちに、音楽の中に小さく点った炎が最終楽章に向けてめらめらと燃え盛っていく。

バレンボイムフルトヴェングラー信者で、レコードはすべて聴いて研究したらしいが、演奏スタイルがフルトヴェングラーに似ていると指摘する人は多い。確かにこの全集でも、9番の第一楽章冒頭なんて、フルトヴェングラーバイロイト祝祭管による例の9番の出だしにそっくり。地の底から沸き上がったような音が、次第に何かの形をまとい、目の前に聳え立っていく。響きに雑味があるところもよく似ている。フルトヴェングラーアインザッツをあえて揃えないよう奏者に指示していたというが、バレンボイムもこうした響きを出すために色々計算しているかも知れない。

あるいはシュターツカペレ・ベルリンの持ち味なのか、バレンボイムの指示なのか、このベートーヴェン交響曲全集は不思議に、全編くすんだ色合いの弦が聴かれる。悪く言えばもっさり、良く言えば燻し銀の伝統的ドイツオケの音とでもいうのか。一方で管楽器は柔らかく伸びやかな音を聴かせてくれる。録音もすこぶる良くて、その点でも高く評価したい。9番第4楽章の途中でバレンボイムの唸り声とおぼしき音が入っているのまで分かるくらい録音は明瞭。

最後に一言。バレンボイムに関しては食わず嫌いでずっときてしまった。やれ「有り余る才能を湯水のごとく無駄遣いしている」だの「ユダヤ財閥をバックにパリ管の音楽監督の首をつないだ」だのボロクソに言われ、日本のクラシック界では、評論家はもとより一般層からも遠ざけられてきたのが、ダニエル・バレンボイムだ。でも、今回この全集をちゃんと聴いてみて、ノックアウト。完全に認識を改めさせられた。先入観を持ってはいけない。バレンボイムに懐疑的な人がいたら、まずとにかく聴いてみてほしい。バレンボイムは素晴らしい!

音楽の「深み」とは何だろう(2)

ただし、音楽はある面からみれば「ただの音響」である。ここが難しいところだ。誰が演奏した音楽であろうと、鳴っている音、いままさに耳に届いているそれは音響に過ぎない。そして、音は、ある周波数を持った空気の振動が鼓膜に達し、脳がそれを感知したものに過ぎない。だから、音楽に深みを感じるか否かは、つまるところ、受け手の耳次第であり、その人の感受性に大きく左右されると言うことができる。

もしかしたら、ロボットが演奏したピアノソナタを聴いて心を奪われ、感涙にむせぶ人もいるかも知れない。また逆に、フルトヴェングラーが残した演奏を聴いて何の感興も覚えない人がいる可能性だってもちろんあるのだ。

音楽の「深み」について語られるとき、必ずといっていいほど登場してくるのが「精神性」という言葉だけれど、これも人によってはかなり都合よく使われることがあって、胡散臭い言葉ではある。例えば、「カラヤンベートーヴェンはスマートだけれど精神性に乏しい。フルトヴェングラーベートーヴェンは音の背後にドラマがあり、精神性が高いのだ」などという科白によくお目にかかるけれど、いったい精神性とは何だろうか?

そもそも、音楽を演奏した主体が人間である限り、そこにはどんな種類のものであれ精神が介在しないということはあり得ない。カラヤンベートーヴェンは、カラヤンという人間がベートーヴェンのスコアを読み、表現意図をオーケストラに伝え、オーケストラを統率してはじめて音として生み出されるものであって、そこには当然オーケストラの団員も参画しているわけで、これ以上は考えられないほどの精神活動の結晶であるとも言えるのだ。

だから、仮にカラヤンベートーヴェンがスマートかつ美麗であるとするならば、そういう演奏を可能としたカラヤンの精神が凝集されているという点において、カラヤンベートーヴェンは高度に精神的であり、精神性が高いと言えるのではないだろうか。

例えば、ベートーヴェン自身が、フルトヴェングラーの演奏とカラヤンの演奏とを聴いたとしたら、どちらを評価するだろうか。これは難しい問題だと思う。

古楽器演奏が盛んになりスコアの研究が進むにつれて、フルトヴェングラーワルター達の演奏よりも、ブリュッヘンインマゼールノリントンらによるピリオド・アプローチこそが実はベートーヴェンの意図したものに近い、というか、フルトヴェングラー達の演奏は、誤りとは言えないまでも実はかなり特異なものだということが明らかになってきつつある。

ベートーヴェンは作曲家でありながら聴力を失うなど苦悩の人という印象が強く、そのドラマティックな人生を踏まえて、ベートーヴェン演奏にもそうした趣向を持ち込もうとする傾向が支配的だった時代があった。そうした時代精神を濃厚に継承した一人がフルトヴェングラーだったのだろう。

一つだけ確実に言えるのは、カラヤンフルトヴェングラーと、どちらがベートーヴェン演奏として正しいかなどということは言えないし、それを論じることにもあまり意味はないということだ。

音楽の「深み」とは何だろう(1)

クラシック音楽の評論を読んでいると、「深みのある響き」だとか「深みに乏しい演奏」だとかいう文章にしばしば出会う。「深い」音楽は良きものである一方、音楽が「浅い」というときには、それを書いた作曲家やその演奏者が、ある種の力量に不足していることを咎める含みがある。

しかし、いったい音楽の「深み」とは何なのだろう?そこで表現されているのは自明なもののようでいて、いまいち捉えどころがない。長く音楽評論に親しむ中で、深い演奏は言うまでもなく深い演奏であり、浅い音はどうしようもなく浅い音なのだ、何も考えずにそう割り切ってきたけれど、音楽における「深み」とは何なのか、深い演奏や深みのある音楽とは何なのかを、ここであらためて考えてみようと思う。

クラシックの世界で、深みのある演奏を繰り広げた人といえば、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーブルーノ・ワルター、ヴィルヘルム・バックハウス、そしてヨーゼフ・シゲティなどを代表に挙げる向きが多いと思う。逆に深みに乏しい演奏、いわゆる「浅い音楽」「浅薄な響き」などと批判されがちたったのが、ヘルベルト・フォン・カラヤンだ。ピアニストでは、ウラディーミル・アシュケナージなども深みに乏しいなどと言われることがある。カラヤンの演奏については、「深みがないことの、なんという美しさ」とまで揶揄される始末。カラヤンがつくり出す響きは、耳には心地よいが中身がない、精神性が感じられないというのだ。カラヤンなんて「空やん」というわけである。

「深い」とか「浅い」というとき、例えば器を例に出して考えてみると、分かりやすいかも知れない。深い器は底がすぐには見えないし、より多くの物が入る。何かをいっぱい入れておけば、取り出すときの楽しみも増える。でも、浅い器はすぐ底が見えるし、中身も当然あまり入らない。

音楽も、深みのある音楽であれば、色々な要素がその中に盛り込まれていて、聞き手に底知れぬ魅力を感じさせるけれど、深みに乏しい音楽は、鳴っている音が鳴っている音以上の内容を持ち得ない、つまりはただの音響である、という風に考えていくことができる。