Dear-Abbadoのブログ

折々の雑感を綴っていきます。

音の公害

僕は音に敏感なたちで、巷に溢れているあれこれの音に苦痛を覚えることがしばしばだ。

電車内だとアナウンスの音、くしゃみや咳払い、やたら大きな声でしゃべる人の声、携帯音楽プレイヤーの音漏れ。中でも車内アナウンスはかなり不快だ。やれ遅延のお詫びだの駆け込み乗車はやめろだの寒いのでお気をつけくださいだの、うるさいことおびただしい。乗客にはイヤホンで耳を塞いでいる人も多いからそういう人たちにもアナウンスが行き渡るようにということなのか、とにかく信じられないほど音が大きい。

アナウンスの音が小さければ小さいで、俺はそんな情報は知らされなかったとクレームをつける輩が出てくる可能性もあるからということで、あの異常にうるさい車内アナウンスは、鉄道会社なりのエクスキューズなのだろうか。

また、街中に騒音を垂れ流していく廃品回収業者たち。あれは犯罪者に等しい。なにしろ、自分たちの商売のために人様の静寂な環境を破壊してまわるのだ。本当に呆れ果てる。ゴミ集めは無関係な人間に迷惑をかけずにやるべきで、やり方自体がゴミではもうどうしようもない。

あらためて、「感謝する心」の大切さ

現代の日本のような社会に生まれて、生きていると、「感謝する心」というのはなかなか育ちにくいのだろう。自戒もこめて、ふとそんなことを思った。

当たり前のように住む家があり、食べさせてくれる人がいて、コミュニティもある。治安もいい。教育も施してもらえる。テレビはもちろん、パソコン、スマホタブレットまで手に入り、海外旅行にも気やすく行ける。年をとって年金暮らしになっても、高レベルな医療サービスを比較的安く受けることができる。

やはり、日本はとことん ¨ぬるま湯¨ 社会なんだろう。選挙の投票率がいつも低いことから分かるように、ろくに政治参加もしないくせに、何かと言うと国や政治のせいにしておきながら、一方では本格的な暴動やテロなんて誰も起こしはしないし(もちろん起きて欲しくはないが)、せいぜいがデモごっこで終わる。結局、そこまで切羽詰まっていないし、現状の居心地がいいのだ。

でも、豊かな社会がすでにあることにあぐらをかいて、それが未来永劫に続くかのように驕り、まだ足りない、こんなものが欲しいわけじゃない、と誰もがクレーマー化するようになってはお先真っ暗だ。

同じ「まだ足りない」でも、低成長が続けば将来は国民一人当たりのGDPが韓国の半分になってしまう、だから経済成長は続けなければ、という主張は分からないでもない。世界の現実を見た上でのまっとうな危機意識が、そこにはある気がするからだ。

さて、「感謝する心」である。「感謝する心」なんていうと堅苦しく聞こえるけれど、結局それは、物事のよってきたるところに思いを馳せて、その意味を考えるということに尽きるのではないか。

例えば、日本がいま豊かでいられるのは、戦後多くの国民が勤勉に働いた結果であり、経済的な豊かさを維持しようと今現在もあれこれ努めているからに他ならないことに気づくこと。文明の利器であるスマホタブレット端末も、エンジニア達の汗と涙の結果として開発され、いま我々がいじくれるようになっていることに、思い至ること。

これだけ物質的には満ち足りている日本で、感謝の心もこれっぽっちも持てずに、自分の我欲を優先させて権利だけを声高に主張するような人間がいるとしたら、それは野蛮人だ。

バレンボイム、素晴らしいじゃないか!

ずっと気になっていたboxセット、ダニエル・バレンボイムシュターツカペレ・ベルリンによるベートーヴェン交響曲全集を買った。

実はこの全集、Youtubeに音源がすべてアップされていたので事前に少し聴いてみたのだが、その素晴らしさにびっくり。渋谷のタワレコにいそいそと出かけ、ずっとためつすがめつしていたこのboxを買ってきたというわけだ。

1~9番まで全部聴いてみて、特に良いと思ったのはエロイカ、4番、9番というところ。もちろん他の交響曲も文句なし。特段変わった解釈は見られず、直球勝負な中にベートーヴェン交響曲の個性が最良な形で息を吹き込まれている。エロイカは、冒頭のあの二つの和音がずっしりかつ超燦然と鳴り響く。例えはおかしいけれど、まるで横綱の鮮やかな立合いを見るかのよう。9番は、滔々たる流れに身をゆだねるうちに、音楽の中に小さく点った炎が最終楽章に向けてめらめらと燃え盛っていく。

バレンボイムフルトヴェングラー信者で、レコードはすべて聴いて研究したらしいが、演奏スタイルがフルトヴェングラーに似ていると指摘する人は多い。確かにこの全集でも、9番の第一楽章冒頭なんて、フルトヴェングラーバイロイト祝祭管による例の9番の出だしにそっくり。地の底から沸き上がったような音が、次第に何かの形をまとい、目の前に聳え立っていく。響きに雑味があるところもよく似ている。フルトヴェングラーアインザッツをあえて揃えないよう奏者に指示していたというが、バレンボイムもこうした響きを出すために色々計算しているかも知れない。

あるいはシュターツカペレ・ベルリンの持ち味なのか、バレンボイムの指示なのか、このベートーヴェン交響曲全集は不思議に、全編くすんだ色合いの弦が聴かれる。悪く言えばもっさり、良く言えば燻し銀の伝統的ドイツオケの音とでもいうのか。一方で管楽器は柔らかく伸びやかな音を聴かせてくれる。録音もすこぶる良くて、その点でも高く評価したい。9番第4楽章の途中でバレンボイムの唸り声とおぼしき音が入っているのまで分かるくらい録音は明瞭。

最後に一言。バレンボイムに関しては食わず嫌いでずっときてしまった。やれ「有り余る才能を湯水のごとく無駄遣いしている」だの「ユダヤ財閥をバックにパリ管の音楽監督の首をつないだ」だのボロクソに言われ、日本のクラシック界では、評論家はもとより一般層からも遠ざけられてきたのが、ダニエル・バレンボイムだ。でも、今回この全集をちゃんと聴いてみて、ノックアウト。完全に認識を改めさせられた。先入観を持ってはいけない。バレンボイムに懐疑的な人がいたら、まずとにかく聴いてみてほしい。バレンボイムは素晴らしい!

音楽の「深み」とは何だろう(2)

ただし、音楽はある面からみれば「ただの音響」である。ここが難しいところだ。誰が演奏した音楽であろうと、鳴っている音、いままさに耳に届いているそれは音響に過ぎない。そして、音は、ある周波数を持った空気の振動が鼓膜に達し、脳がそれを感知したものに過ぎない。だから、音楽に深みを感じるか否かは、つまるところ、受け手の耳次第であり、その人の感受性に大きく左右されると言うことができる。

もしかしたら、ロボットが演奏したピアノソナタを聴いて心を奪われ、感涙にむせぶ人もいるかも知れない。また逆に、フルトヴェングラーが残した演奏を聴いて何の感興も覚えない人がいる可能性だってもちろんあるのだ。

音楽の「深み」について語られるとき、必ずといっていいほど登場してくるのが「精神性」という言葉だけれど、これも人によってはかなり都合よく使われることがあって、胡散臭い言葉ではある。例えば、「カラヤンベートーヴェンはスマートだけれど精神性に乏しい。フルトヴェングラーベートーヴェンは音の背後にドラマがあり、精神性が高いのだ」などという科白によくお目にかかるけれど、いったい精神性とは何だろうか?

そもそも、音楽を演奏した主体が人間である限り、そこにはどんな種類のものであれ精神が介在しないということはあり得ない。カラヤンベートーヴェンは、カラヤンという人間がベートーヴェンのスコアを読み、表現意図をオーケストラに伝え、オーケストラを統率してはじめて音として生み出されるものであって、そこには当然オーケストラの団員も参画しているわけで、これ以上は考えられないほどの精神活動の結晶であるとも言えるのだ。

だから、仮にカラヤンベートーヴェンがスマートかつ美麗であるとするならば、そういう演奏を可能としたカラヤンの精神が凝集されているという点において、カラヤンベートーヴェンは高度に精神的であり、精神性が高いと言えるのではないだろうか。

例えば、ベートーヴェン自身が、フルトヴェングラーの演奏とカラヤンの演奏とを聴いたとしたら、どちらを評価するだろうか。これは難しい問題だと思う。

古楽器演奏が盛んになりスコアの研究が進むにつれて、フルトヴェングラーワルター達の演奏よりも、ブリュッヘンインマゼールノリントンらによるピリオド・アプローチこそが実はベートーヴェンの意図したものに近い、というか、フルトヴェングラー達の演奏は、誤りとは言えないまでも実はかなり特異なものだということが明らかになってきつつある。

ベートーヴェンは作曲家でありながら聴力を失うなど苦悩の人という印象が強く、そのドラマティックな人生を踏まえて、ベートーヴェン演奏にもそうした趣向を持ち込もうとする傾向が支配的だった時代があった。そうした時代精神を濃厚に継承した一人がフルトヴェングラーだったのだろう。

一つだけ確実に言えるのは、カラヤンフルトヴェングラーと、どちらがベートーヴェン演奏として正しいかなどということは言えないし、それを論じることにもあまり意味はないということだ。

音楽の「深み」とは何だろう(1)

クラシック音楽の評論を読んでいると、「深みのある響き」だとか「深みに乏しい演奏」だとかいう文章にしばしば出会う。「深い」音楽は良きものである一方、音楽が「浅い」というときには、それを書いた作曲家やその演奏者が、ある種の力量に不足していることを咎める含みがある。

しかし、いったい音楽の「深み」とは何なのだろう?そこで表現されているのは自明なもののようでいて、いまいち捉えどころがない。長く音楽評論に親しむ中で、深い演奏は言うまでもなく深い演奏であり、浅い音はどうしようもなく浅い音なのだ、何も考えずにそう割り切ってきたけれど、音楽における「深み」とは何なのか、深い演奏や深みのある音楽とは何なのかを、ここであらためて考えてみようと思う。

クラシックの世界で、深みのある演奏を繰り広げた人といえば、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーブルーノ・ワルター、ヴィルヘルム・バックハウス、そしてヨーゼフ・シゲティなどを代表に挙げる向きが多いと思う。逆に深みに乏しい演奏、いわゆる「浅い音楽」「浅薄な響き」などと批判されがちたったのが、ヘルベルト・フォン・カラヤンだ。ピアニストでは、ウラディーミル・アシュケナージなども深みに乏しいなどと言われることがある。カラヤンの演奏については、「深みがないことの、なんという美しさ」とまで揶揄される始末。カラヤンがつくり出す響きは、耳には心地よいが中身がない、精神性が感じられないというのだ。カラヤンなんて「空やん」というわけである。

「深い」とか「浅い」というとき、例えば器を例に出して考えてみると、分かりやすいかも知れない。深い器は底がすぐには見えないし、より多くの物が入る。何かをいっぱい入れておけば、取り出すときの楽しみも増える。でも、浅い器はすぐ底が見えるし、中身も当然あまり入らない。

音楽も、深みのある音楽であれば、色々な要素がその中に盛り込まれていて、聞き手に底知れぬ魅力を感じさせるけれど、深みに乏しい音楽は、鳴っている音が鳴っている音以上の内容を持ち得ない、つまりはただの音響である、という風に考えていくことができる。

大人になるということは

喫茶店に入って文庫本を読む。いつも通りの週末の過ごし方。今日入った京急蒲田の喫茶店は客席と客席の間が狭く、聞くつもりはないのに隣の客のお喋りが耳に入ってきて、読書に集中するのに苦労した。こんなとき携帯音楽プレイヤーは重宝するんだろう。

聞くともなく他人の会話を聞いていると、当たり前だけれど人によってトピックは様々で、人それぞれ頭の中はてんでバラバラだということが分かる。

最初に右隣の席に来た女の子二人がしていたのは、それなりにうまくいっているお互いの恋愛の話。次にその席へ来た屈強そうなオバサンは開口一番「頭にくる日は他のこともいろいろ頭にくるね!」、その後は連れのおとなしそうで無口なオジサンを慰めながら、病気やグルメや学歴の話をしたり。一方、左の席にまず来たのは小さい女の子を連れた母親とオバサンのグループで、話題はもっぱらその女の子の挙動。そのグループが去り、代わりに来たのは女の子3人組。こちらは、一人がうまくいっていない恋愛の話を切り出してから、結婚の話や休日の計画、転職の話などをしていた。

昔、ある本に「大人になるということは、他人という存在を知ることだ。自分と他人は違うということを知っていくことだ」と書いてあったのを、ふと思い出した。人はそれぞれ異なる存在だ。肉体というハードの構造やその性質は、だいたいみな同じだけれど、精神や気質はまったく違う。ユングが提唱した普遍的無意識とかは多分あると思うし、時代精神というのも間違いなくあると思う。そういう、民族や人類の意識の底にあって、底に溜まっていって、僕らを規定しているものはあるはずだけれど、一人ひとりの人間の違いというのは、それはとても大きいと思う。

親兄弟であれ、友達、恋人であれ、最後の最後のところでは他人であり、結局のところは分かりあえないところがある。自分のことだけ取り上げてみても、自分の心の中にこんな感情があったのか?というような体験をして驚かされることもあるくらいなのだ。自分でも知り尽くせていない自分である。まして他人のことなど、理解できた、分かりあえたと思う方がおかしい。

まぁ、他人同士違うからこそ理解し合えるよう努力すべき、という方向性もあるとは思う。でも、僕の思考はそこまで熟して(?)もいないし、親切でもない。自分と他人とは違うというのが、あらためての、僕の人間観のベースにある。場末の喫茶店でぼーっとしながら、そんなことを考えた。

音楽小辞典をめくる

音楽評論家の吉田秀和氏が書かれた文章を読んでいると、音楽用語がわりと頻繁に出てくる。楽譜が読めない人には分かりにくい表現が登場したり、ときには譜例が引用されていたりもして、難儀することもある。これは、言わんとするところを正確に読者に伝えるために吉田氏がやむを得ず採った方法なのだろう。それまで単なる印象表現に片寄りがちだった音楽評論を確固たる分野にまで高めた吉田氏の、読者に対する誠実さの表れとでも言えるだろうか。

僕はクラシックの評論を読むのが好きだし、楽器を習っていたこともあるので、ごくごく一般的な音楽用語は知っているつもりだった。しかし、例えば「レチタティーヴォから、アレグロ・マエストーゾを経て、ピウ・アレグロに高まる大憤慨のコロラトゥーラを持ったアリア」(吉田秀和 ¨一枚のレコード¨ ~ダントンとサドの世紀~より引用)などという文章にぶつかってしまうと、もう分からなくなる。そこで、ついに音楽辞典を買うことにした。

あんまりハードな辞典では使いこなせない気がしたので、音楽小辞典(音楽之友社)という小さな辞典を購入した。リズムやテンポなど基礎的な言葉からさらい直し、徐々に難易度の高い用語へと進んでいっているけれど、これがとても楽しい。

音楽小辞典に収載されているのは、メインが西洋音楽に関係した言葉なのだが、例えば「ソナタ」という一つの言葉の解説に約2ページもの紙数が費やされているのを見たりすると、西洋音楽の発展やその滔々たる時間の流れ、音楽に人生を捧げた無数の人々の存在が感じられるようで、本当に圧倒されてしまう。