Dear-Abbadoのブログ

折々の雑感を綴っていきます。

散文的な秋の始まり

例えば都内でも、高尾山や奥多摩の方には秋の気配がしっかりと届いているのだろう。あいにくトレッキングや登山の趣味がないので、そこら辺は想像の域を出ない。僕の住む区は今日は一日、残暑と初秋の空気が混じり合ったような微妙な陽気だった。

夕食をとろうとわざわざ電車に乗って出向いた戸越銀座商店街の通りを、ぶらぶら歩く。レトロな外観をしたアパートや、不思議な活気の支配する定食屋、飲み屋を横目に見ながら、この街へ引っ越してきたらどんな生活を送れるだろう?とちらりと考えたりした。間もなく22時という時間帯に、肥満への危機感をうっすらと感じながら、とあるラーメン屋でチャーシュー麺を食べる。店には僕の他にお客は一人。店員二人は正月の営業時間の話などして暇をもて余していた。

再び電車に乗り込み、食べた後は軽く運動を、とばかりに途中下車して自宅までゆっくりと夜の散歩をする。秋はランニングに向いているのだろうか。ランナー4、5名とすれ違う。みなスリムな体型をしている。僕はジム通いはしているけれど、走るのは苦手だし、走るとすぐに風邪をひくので、ランナーには尊敬の念を抱いている。走り続けられるということは、己の生活習慣そして肉体を律することができる強靭な精神を、その人が持っていることの証だ。

そろそろ僕も体を絞らなければ。10月、11月、12月と今年は残り3カ月ある。まずは、夜中にラーメンを食べてしまうような精神からなんとかしなければいけない。

アンドラーシュ・シフのパルティータ

秋雨前線が居座り、台風も近づいてきて、今晩は都内でも雨がよく降っている。基本的に雨は好きではないけれど、雨がしきりに降ると大気中の塵や埃が洗い落とされ、空気が澄みわたりそうな気がして、傘をさして歩いていると思わず深呼吸したくなることがある。

雨が降り続くこんな夜はバッハを聴くに限る。バッハの曲はどれも、楽曲の形式という枠から音楽がはみ出したり溢れたりすることがないようで、中味が詰まって充実している。そういう点で、聴いていてたまに息苦しく感じられることもある。一方で、一つの楽曲の中で音楽が満ち満ちていき、果てしなく自己増殖していくような感覚を覚えさせられることもある。バッハの宇宙、音楽の宇宙が展開していく様が聴きとれるのだ。

今日は、アンドラーシュ・シフが弾くパルティータの全曲に耳を傾けた。シフはとても上手いピアニストだ。モーツァルトシューベルトもバッハもそつなく弾きこなす。ただ、上手いけれど個性的なタイプではないから、玄人受けはよくないかも知れない。実力はあるのに音楽評論家の覚えが良くない点では、どこかアシュケナージに似ている。

シフが弾くパルティータは、音が粒立っていて、音楽の流れが自然で、安心して身を任せていられる。タッチがやさしいのだろう。無駄な力が入ることはなく、ひたすらバッハの音楽に奉仕することで、ありのままに音がたち現れては消え、また現れては消えていく。あまりにあっさりしているので人によっては好みが分かれるかも知れないが、シフのバッハを聴いていると、彼が現代のピアノ演奏の一つの極点を確かに示しているのが分かる気がする。

リッカルド・シャイー

リッカルド・シャイーを初めて聴いたのは、中学生のときだった。シャイーがロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団と録音したストラヴィンスキーの¨ペトルーシュカ¨と¨プルチネッラ¨が新聞のCD新譜評で取り上げられているのを読み、いそいそと買いに行ったのである。操り人形を描いたカラフルなジャケットの印象とともに、冒頭から色彩豊かな管楽器群が飛び出してくるペトルーシュカの音響は、僕の心に強いインパクトを残した。クラシックにもこんな楽しい曲があるんだ、と心が躍ったのを思い出す。

それからしばらく経ってから、中古店でシャイーが振ったマーラーの4番を買い、聞くことになった。マーラーの4番はそれまでにケーゲルの盤を持っていたのだが、シャイーが繰り出す音はケーゲルのとはかなり違っていた。まず、最初に鳴り響く鈴の音が、シャイーの盤では実にきらびやか、涼やかで鮮烈なのだ。きらびやかに聞こえるのは、世界に冠たる録音技術を誇るデッカの盤だからということもあるとは思う。しかし、美音の大海に身を浸してみると、シャイーという指揮者が、一音たりともおろそかにすることがない真摯な音楽づくりを志していることが伝わってきた。

シャイーとコンセルトヘボウのコンビでいえば、ブラームス交響曲全集、マーラーの1番、ブルックナーの8番など、どれも音が明るく、アンサンブルの純度は素晴らしく高く、美麗の限りを尽くして天上世界を垣間見せるような名演揃い。クリーヴランド管との¨春の祭典¨も、野性味という点ではいま一歩な感じはあるものの、現代オーケストラの上手さをフルに示した点で文句のつけようがない。Youtubeで聞いたライプツィヒ・ゲヴァントハウス管とのブランデンブルク協奏曲も、楽しく、軽やかで、こんなバッハもありえるのかと驚かされた。

シャイーはイタリア人だから、ラテン気質が音楽にも出てくるのだと解説している人があったが、基本的にシャイー自身が根の明るい人間なのだろうと思う。振る人間が変われば、出てくる音もまったく変わってくるのだ。それを堪能するのがクラシック音楽観賞の楽しみである。

心を鎮めることは大切

このブログではなるべくネガティブなことは書かないようにしているが、今日はその禁を破ってネガティブなことを書いてみる。

ここ2、3日、なんだか気持ちが落ち着かない。というか、かなりむしゃくしゃする。仕事のストレスもあるし、アパートの隣の部屋に住むオバサンが毎日騒音を立てるのにムカついていることもある。天気も不安定で腹が立つ。おまけに、この界隈で祭をやっているせいで真っ昼間から太鼓の音が延々響いてきてキレそうになる。寝覚めが悪く、起きてすぐぐったりしている。などなど。一つ一つを取り上げればどれも大したことではないが、こちらの心がささくれ立っていると、泣き面に蜂、弱り目に祟り目で、ムカつくことがどんどん重なってくるような気がして、世の中を呪詛したくなる。

瞑想に親しむようになってから、ストレス耐性は高まったように感じているけれど、毎日ニコニコ笑顔で過ごせるかというと、やはりそういうわけにはいかない。嫌なことってあるものだ。瞑想をしてかえってぼーっとしてしまう日もあって、そこら辺は習熟が要るのかも。

心を鎮めることは何にもまして大切だ。外界で何が起ころうとも、心が静かに整ってさえいれば、やり過ごすことができる。引き寄せ的に解釈すれば、むしろ、心を常に鎮めておければそもそも外的環境に波風が立ちにくくなるのだろう。日々のストレスを散らす工夫、気分転換、良質な睡眠、深い瞑想。これらに集中しようと思う。

「男はつらいよ」を観る楽しさ

渥美清が主演した「男はつらいよ」シリーズを観続け、とうとう36作目まできた。何気なく1作目のDVDを借りてきて観たら、想定外(失礼)に面白く、どうせなら全48作を観ようと思って借り続けている。

寅さんが柴又へふらっと帰ってくる→おいちゃん、おばちゃん、さくらと喧嘩→寅さんがまた旅に出る→旅先で女性に惚れる→振られて傷心を癒やす旅に出る。どの回もおおまかこんな展開で、さすがに30作を超えたあたりから中だるみというか、脚本もダレてきたのがよく分かるのだが、この究極のマンネリズムをそれでもなんとか見せてしまうのはさすが渥美清の演技、そして山田洋次と松竹の力というべきだろうか。

男はつらいよ」の見所は色々あって、マドンナが誰で寅さんとどんな掛け合いを見せるかというのも大きいけれど、フーテンの旅先で広がる美しい風景の数々は目に焼きつく。公開当時、スクリーンに映し出される日本各地を目にして、旅心を刺激された人たちも多かっただろうと思う。それから、田舎のお婆ちゃんと寅さんのふとした会話。柴又の¨とらや¨のみんなとタコ社長が、寅さんの噂話をしながら囲む食卓。柴又の街の佇まい。

また37作から先を観ていくわけだけれど、さくらがさらに老け、渥美清が病気で弱っていくのがあらわになってくる予感を一方で抱きつつ、どんな最終作へと辿り着くのか、楽しみでもある。

今日もコーヒー中毒

コーヒーがとにかく好きだ、という人は多いと思う。僕もそうで、平日は毎朝必ずセブンイレブンのセルフドリップ式アイスコーヒーを買って飲む。朝食は絶対に食べないけれど、コーヒーを欠かしたことはない。常識的には朝ごはんも食べずに空きっ腹にブラックコーヒーを入れたりしたら胃が荒れると思われるかも知れないが、僕の場合は午前中はブラックコーヒーだけで過ごした方が心身ともにしゃきっとするし、仕事も捗る。もちろん午後もコーヒーを飲む。

近所にコーヒーのとても美味しい喫茶店を見つけてからは、毎週一度は必ず通っていて、平日のコーヒー代も合算すると月に7000円ほどつかっている。酒好きな人は月に数万円くらい酒に支出するだろうけれど、僕もコーヒーにそこそこ出費している。今日も近所の喫茶店でコーヒーを飲みながら、この記事をしこしこ書いている。

全日本コーヒー協会HPの記述によると、科学的にはコーヒーに中毒性はないらしい。ただ、コーヒー好きな自分の実感からすると、コーヒーを飲まないとなんだか落ち着かない感じになってくる。むずむずしてくる。多分、カフェインとコーヒーの香りに禁断症状を覚えるのだと思う。旅行のときもコーヒーを飲まない日はなくて、素敵な店との出会いに期待しながら1日に4~5店をまわってコーヒーを飲みまくってしまう。

トゥーランガリラ交響曲

先日タワレコで買ってきた中の一枚、メシアントゥーランガリラ交響曲を聴いた。小澤征爾トロント交響楽団による1967年の録音。トゥーランガリラ交響曲は、名前だけは前々から知っていたが、曲自体は初めて聴く。

楽章というか独立した部が10もあり、この盤ではTotal Playing Time 76:56と長大。喫茶店に入ってポータブルプレイヤーでなんとなく聞き流していたのだが、途中で聴き馴染みのあるようなメロディーが出てきた。N響アワーのオープニングに使われていたらしいから、そのときに聴いたのかも知れない。

トゥーランガリラというわけの分からない名前から凄まじい音の洪水を予想していたが、案外大人しい曲という印象を受けた。ちなみに、ライナーノーツによるとサンスクリット語でトゥーランガは時、リラは遊びや愛を意味するのだそう。要所要所で、ピアノの他に、びよょ~ん、みょ~ん、という不思議な音を発するオンド・マルトノが登場して、そのオンド・マルトノの音になぜかレトロな感覚へ誘われた。

小澤さん指揮のディスクは、このメシアンの他に、ピーター・ゼルキンと協演したバルトークのピアノ協奏曲1、3番を買ってみた。なかなか良い。どちらも、小澤さんが30代前半の頃の録音だからなのか、音が生き生きとしている。