Dear-Abbadoのブログ

折々の雑感を綴っていきます。

裸になろう

人間、生きているうちに、いろいろなものを背負わなきゃいけなくなったり、いろいろな関係を抱え込まなきゃいけなくなったりする。当然、息苦しくなる。

一方で、実は人間関係が面倒くさいくせに一人でいるのは寂しかったり、大したことない自分の日常をSNSで盛ってみたり他人のSNSを見て一喜一憂したり、そんな現代病にかかる人も増えている。

自分を実態以上によく見せようとしても、必ずいつかボロが出る。もちろん、劣等感がバネになって、その克服に努力するうち自分がレベルアップすることはあるだろうが、無理し過ぎれば心が悲鳴を上げる。

そんなときは、素の自分をさらけ出してしまうのがいい。種々のストレスは、関係性やら記憶やら、色んなものがフジツボみいに自分にくっついてくるから、発生する。たまにはそういうのを全部ぶん投げてしまって、裸になってみるといい。

裸になるっていうのは、心にまとった色々を取り外すという意味でもあるけれど、物理的に裸になるっていう意味でもあるし、その効果は意外に大きい。

公共の場で裸になればもちろん警察の厄介になってしまうから、銭湯や温泉へ行って、人前で堂々と裸になるのがいい。銭湯では解放感がいまいちだから、できれば露天のある温泉がいいだろう。

僕の住む東京都内にも温泉はある。でも、東京を少し離れるだけで、土と草の匂いがする風に吹かれて青空を眺めながら、露天風呂を楽しめる温泉がいくつもある。

例えば、西船橋駅のひとつ先の駅にある「法典の湯」とか、手賀沼温泉として有名な我孫子の「満天の湯」とか。海が近いせいかどちらも塩辛い温泉で、自分が味噌汁の具にでもなった気分になりながら、しばし放心の時間を過ごすには最高の場所。

音楽家と容姿について

巷では「顔には生き様が出て、体型には暮らしぶりが出る」ということになっているらしい。

自分の顔のことは棚に上げて言うが、僕も、人間の内面はいやがうえにも顔に出てしまうし、性格の歪んだ人間の顔にはどこか醜悪なものがあると思っている。

一方で、精神に気高さのある人間は、顔立ちにも美しさがある。これは単に、いわゆる見た目で美人、美男かどうかといったレベルの話ではなくて、外見にある種の荘厳さ、立派さや豊かさが感じられるかどうかで、いわゆるブスや醜男に属する人達でも、内面の良さが容姿に滲み出ている人はいる。

ひるがえって、音楽家の容姿はどうか。まず思いつくのは、カラヤンだ。整髪料できっちり整えた髪、涼しげな目元、小柄ながらも締まった身体つき、耽美を結晶化させたようなタクトさばき等々、カラヤンの見た目というのは、彼が紡ぎ出した壮麗かつ甘美、流線型の音楽とあわせて考えると、こういったものを表出させる精神がカラヤンに間違いなくあったことを明白に語っている。

マタチッチは、指揮ぶりも見た目も洗練とはほど遠いが、そのスケールの大きい音楽に照らしてみると、よく分かるものがある。マゼールの顔つきは、彼がきわめて頭のキレる指揮者だっただけに嫌らしいくらい自信たっぷりだし、ハイティンクはまさに中庸そのものの容姿。僕には意地悪な数学教師のようにしか見えないセルの演奏は、端然かつ精緻、玄人受けはする。

また、デュトワは根っからの女好きが分かる顔だし、ブロムシュテットは菜食主義で敬虔なクリスチャンだというのが紳士然たる顔立ちに出ている。ドホナーニには、クールな音づくりを頷かせるニヒルさが漂っている、うん。

ピアニストについて言っても、アルゲリッチは見るからに女傑だし、ブレンデルは学者、シフは器用な雰囲気をまとっている。ポゴレリチは、やはりちょっと神経質そうだ。

現代のフルトヴェングラー、ピアノも指揮も一流のバレンボイムはどうだろうか?

バレンボイムは若い頃はなかなかの美男子だったと思うが、ベビーフェイスなのが災いして(?)75歳のいまは妙にギラギラした顔つきになっている。バレンボイムの場合、彼が示す濃厚な表現とあの風貌とが何となく一致する気はするが、あまり関係ないかも知れない。

ところで、なぜかバレンボイムのCDやレコードには、彼の写真があしらってあるものが多い。それも、いかにも手抜きといった感じのデザインで、不気味な彼のスマイルだけが強調されているようなものが目立つ。日本でバレンボイムがあまり人気がないのは、ここら辺にも理由の一つがあるような気がしてならないのだが。

楽家が若くて綺麗だったりイケメンだったりするだけで、才能とは関係なく無闇に飛び付く人が多い日本は、バレンボイムにとっては不利な国だったのかも知れない。

ただ一向に念仏

僕は、家にいるときはもちろんのこと、歩いているとき、通勤電車を待つホームや会社のエレベーターの中にいるとき、トイレの中、ジムで湯船につかっているときなど、普段から、隙あらばいつでもどこでも¨南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏¨と念仏している。もう本当に、念仏が癖になっている。ただ、公共の場で大声でやると気がふれた人と思われてしまうので、人があまりいないときに、自分にだけ聞こえるくらいの小声で念仏している。

旅行しても、行った先々で絶えず念仏する。帰省しても念仏。まず仏前で。そして墓参りして、念仏。犬を散歩に連れていくときも、ただひたすら念仏だ。絶えず¨南無阿弥陀仏¨と称える僕に、犬は神妙な顔つきを見せるときもあるし、まったく意に介さないときもある。犬はやはり犬だ。でも、そんな彼らの顔をじっとのぞき込みながら、僕はじっくりと念仏を聞かせてやる。「犬の耳に念仏」だが、何か計り知れない大きな力が働いて、彼らの輪廻転生に良い影響を与えるかも知れないと思いながら。

ところで、口で念仏できない人は¨南無阿弥陀仏¨と書いた紙を目にすることができれば、阿弥陀仏と結縁できるという。では、口で称えることはおろか目にすることもできない人、つまり聾唖者であり盲人である人は、阿弥陀仏の救いから漏れてしまうのか?その場合は、¨南無阿弥陀仏¨と書いた紙に触れることができればよいそうだ。

阿弥陀仏と結ばれる機縁は、このようにいくらでもある。ただ、阿弥陀仏と縁のない人はまったく縁のないまま一生を過ごす。そういう人には他の神、仏や菩薩、聖典との出会いがあるだろうし、自分の心にしっくりくる/こないというのもあるだろうから、良いとか悪いとかいう話ではない。

僕は、実家の宗派がたまたま浄土宗で、親も兄弟もまったく念仏なんて称えてなかったけれども、自然にひとりでに念仏するようになった。「選択本願念仏集」はもちろん読んだし、「歎異抄」も、現代語訳だけれど「浄土三部経」も読んだ。そして、法然上人も親鸞聖人もどちらも敬っているし、好きだ。

あまり知られていないけれど、念仏には現世利益をもたらす力がある。災厄を祓う力もある。でも、そういうのは些末な事柄であって、まずは一声でも多く念仏することが大事だ。

法然上人が「一枚起請文」で述べられた通り、¨念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じうして、智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし¨ である。

まさに、¨ただ一向に念仏¨するうちに、すべてが心身に備わってくる。

マーラーあれこれ

年末から年始にかけて、吉田秀和の「音楽の光と翳」と「マーラー」を読んだ。

吉田秀和の文章は、滋味深いというか、誠実な文の運びに独特のリズムがあって、すっと頭に入ってこない箇所がときにあっても、隅から隅までじっくり読んで味わい尽くしてしまいたくなるような、硬派な魅力に富んでいる文章だと思う。

聴くだけでなく、音楽の評論を読む楽しみを教えてくれたのは、まず宇野功芳だったが、宇野氏とは違う個性を持った吉田秀和の著作を読むのも僕は好きだ。ディスクユニオンや街中の古本屋で吉田秀和の本を見つけると、ほとんど必ずと言っていいほど買って帰る。あと他に、僕好みの音楽評論を書くのは、黒田恭一くらいかな。

さて、吉田秀和の「マーラー」。マーラーは僕も昔から少しずつ聴いてはいた。しかし、交響曲でまったく聴いたことがないのが二つあって、一つは8番、もう一つは未完の作となった10番。「マーラー」を読んでいるうち、マーラー交響曲をあらためてしっかり聴きたくなって、ディスクユニオンで未聴の8番(シャイーとRCO)と10番(ハーディングとVPO)に加えて、2番(ショルティCSO)と5番(インバルとFRS)も買ってきた。

千人の交響曲はとにかく長い。土日の時間があるときに、腹をくくって正座でもして聴かなければいけない気がして、いまだに未聴だ。そして10番も。インバルの5番は聴いてみた。これは、情念の渦のようなバーンスタイン盤に慣れた耳には新鮮な演奏だけれども、マーラーの頭の中にあった音としては、いったいどちらが近いのだろうという疑問も感じざるを得ない。

ショルティは、ことマーラー演奏に関しては評判が良いようだ。ショルティは現役の頃はデッカ(ロンドン)への多数のレコーディングによって広く聴かれたと思うのだが、宇野功芳や中野雄などのアンチの影響もあったのか、CD売り場でもあまり見かけなくなったし、音楽評論の世界でもいまだまともに取り上げられることがない。

僕もショルティのディスクはあまり持っていない。ドボルザークの新世界をCSOショルティの演奏で聴いたときは¨これはダメだ¨と思った。弱音から最強音へ至るときの暴力的な表出によって、ドボルザークがまったく死んでしまっていると感じた。

ただ、ショルティは間違いなく一時代を築いた大指揮者だろう。文春新書の「クラシックCDの名盤」を読んでかなり不満だったのは、ライナー、オーマンディショルティ、ドホナーニ達が取り上げられていなかったことだ。どう考えても、スクロヴァチェフスキ、ノリントン、ジンマンについて書かれていてショルティ達が無視されているのはおかしい。もっと言えば、コンヴィチュニーブリュッヘン、プレヴィン、マリナーなどについても書かれてしかるべきだと思った。

この本は面白いのだけれども、偏り方において決定的な欠陥を抱えており、また、演奏そのものについてではなく演奏家のゴシップやエピソードの記述に終始している中野雄の姿勢(というより資質?)にもはなはだ疑問符が付く書籍だ。

とかなんとか言いつつ、ショルティの復活を聴いてみた。聴いてみたが、これはもう本当にショルティ節全開で、うーんと唸ってしまう他ない。クレンペラー盤と比べるのはどうかとも思うが、ショルティのは、香りや雰囲気がないというか、有無を言わせぬ音の塊でどこまでも突進して行く。どうやら、聴き直すのには体力が要りそうだ。

マーラーの話からショルティの話に飛んでしまったが、ギーレンやアバド、小澤、バレンボイムムーティ達の演奏もどんどん聴いていきたい。もちろんブーレーズも外せない。

不思議なこと

自分の身に実際に起きた不思議なこと三つについて、書きたい。淡々と事実だけ記します。

一つめ。玄関、トイレ、浴室など、久しぶりにちゃんと掃除をした。その後、一週間くらい経ってからひょんなことから数万円の臨時収入があった。正確に言うと、とあるところに払った金額の一部が戻ってきた。ただ、まったく寝耳に水だったので驚いた。ちなみに、掃除と臨時収入に因果関係はない。「トイレ掃除をすると臨時収入がある!」的なネタに見事に合致することが自分の身にも起こったまで。

二つめ。念仏を普段以上に熱心に称えた。翌日、ずっと前から悩まされている某皮膚症状がかなり軽微になっていることに気づいた。ちなみに、これも、念仏と症状改善に因果関係はないと言っておこうと思う。ただ、念仏三昧以外に何か特別なことをした記憶もない。

三つめ。ある心理状態を意図的につくりそれを持続させると、このブログのPVが明らかに増えること。何回か試してみたが、毎回同じような結果になる。これはあるとき偶然気づいたことで、いわゆる引き寄せ的な話だが、本当に不思議ではある。でも意図的にメンタルコントロールするのは面倒だし疲れるので、あえてやることはない。ブログは面白ければPVなんて勝手に増えるし、つまらなければPVは地を這ったまま。当ブログは完全に後者だろう。

上海は楽しい

11月3日から2泊3日という弾丸で上海へ旅をした。先月は初めて台湾へ行ったが、今回は初めての中国。

往復の飛行機は中国東方航空。このエアライン、あまり評判がよろしくないようで、「機内食がゲロまず」「中国人旅客がギャーギャー騒いでいる」「通路で子供がオシッコ」などネット上では惨憺たる悪評を受けていたので心配していたが、機内食はまぁ美味しくはないけど普通に食べられるし、中国人は特に騒いでいなかったし、通路で排尿する子供もいなかった。

乗ったとき、シートや床にゴミが少し残っていたり、エコノミークラスでは映画を観るディスプレイがなかったりと、不満もないこともなかったけれど、贅沢言わなければごく普通のエアラインだと僕は思った。

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さて、上海。まず向かったのは、旧フランス租界の衡山路・徐家匯。衡山路駅を下りて地上に出ると、なんだか靄がかかっていて、まだ昼過ぎなのに夕暮れのようにあたりが黄色い。噂に聞くPM2.5による大気汚染なのか不明だが、若い女の子や外国人(白人)はガスマスクのような黒いマスクをつけていた。

しかし、プラタナス並木と石畳、フランス式(?)建築が立ち並ぶ街中は本当に風情満点!素晴らしい雰囲気だ。武康大楼という有名な西洋風建築のある武康路をひたすら北上していくと、プラタナスの枯れ葉が舞い、PM2.5による霞がムードを盛り上げて、行ったこともないパリの通りを歩いているような気分に浸ることができた。

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上海でいちばん面白かったのは、市中の公園。魯迅公園と復興公園という二つの公園へ行ってみたが、年配の男女が、楽器を演奏したり、太極拳をしたり、玩具を売ったり、大勢でコーラスをしたり、社交ダンスをしたり、釣りをしたり、将棋をさしたりと、まぁとにかく陽気に元気に、おもいおもい活動していて壮観だった。中国は老人が元気、というのを実感した。

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他に上海で驚いたのは、奇抜なデザインのビル。捩れた形のガラス張りの高層ビルや、炭酸の泡のような無数の光が壁面に絶えず明滅する巨大ビルなど、まず日本では見られない変わったデザインのビルが あった。庶民の住む低層住宅ひしめく界隈のすぐ向こうにそうしたビルが聳え立つ光景が、変貌し続ける上海を象徴しているようだった。

中国は玄空飛星派などの風水の本場だ。でもきっと、大半の宅地の造成やビル開発などは風水など考慮せず行っているだろう。僕が見た限りでは、そう思われた。宅運がこうで旺気をここからとり込んで、なんてやっている余裕はないし、そもそもそんなもの鼻にもかけずひた走る人民のエネルギーがあった。

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台北へ行ってみた

10月6日から10日にかけて、初めて、台湾は台北へ旅をした。

着いた晩にMRTに乗ったが、運行の正確さ、車内の清潔さ、そして安さにもびっくり。乗客のファッションも非常に洗練されていた。

小雨が降りしきる蒸し暑い街中を歩けば、東京とまったく変わらない、いやもしかするとそれ以上の面もありそうな発展ぶりにまたびっくりした。

以前、クアラルンプールに行ったときも感じたことだが、東京はもはやアジアの主要都市にキャッチアップされてしまっているとあらためて感じた。

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台湾人は親日だとよく言われる。僕も旅の間に何度か親切にしてもらった。ただ、それが、僕が日本人だったからかどうかは分からない。

最後の日に予定のフライトを乗り過ごした上、残金も少なくてパニックに陥ったとき、警察が心配して色々アドバイスしてくれたことは本当に感謝している。次に台北へ行ったとき、お礼に菓子折りを持っていこうと思う。

台北は総じて物価が低く、食事も安く済ませられる(定食が100円くらいで注文できる)し、英語もそこそこ通じるし、なんといっても安全に旅行できる。そして、東京から3時間半で行けて、異国情緒にたっぷり浸ることができる。魅力的な都市だ。

また、今回感じたのは、台湾人の信仰心が篤いこと。保安宮、士林夜市の発祥になった寺、龍山寺など、沢山の道教寺院をまわったが、線香と供物を捧げてみな一心に祈っていた。小さいものから大きなものまで、道教寺院や道教の廟は至るところにあって、町中に社や祠がある京都にどこか近いものがある。
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そして、台湾人は大人しい。下手すると、日本人の方が騒がしいかも知れないくらい。がなり立てるサラリーマン集団や馬鹿騒ぎする学生みたいなのには一度も遭遇しなかった。

素直な信仰心、大人しさなど、日本人は彼らから見習うべきではないか?

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